FC2ブログ

幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑫克服した芸域の空洞化(下の中②)



 投稿者  安宅 関平

 前稿の要旨は、松村和子さんとのコラボレーション歌唱「イヨマンテの夜」にみた「煮え花」での美の現象は、どこから発せられ、その原因は何であるのかを追ったものである。
それは、芸の向上心に伴う苦悩から発せられ、新しい芸風へ脱皮する苦闘が原因だったようである。

 だが、そうであっても、この「煮え花」の美は、従来の芸風の延長線上のものであり、決して新しいものではなかった。
従来の芸風とは、芸の大切な要件である「魅力作り」を目的とした芸のことである。その目的に必要な「苦労」と「努力」の積み重ねによって、確立された美の表現を指すものである。
だから、素人目に映ったコラボ「イヨマンテの夜」の芸は、拮抗した競馬の着順が写真判定で決められたときのように、他より鼻一つ抜けた僅(わず)かばかりの刺激が、感応度の高い魅力となって心に深く感じられ、観賞の充実感を覚えたことから、結果としてよく出来た芸だとか、美しい芸として感じたものであった。
 しかし、観客はそれでよいとしも、島津亜矢さんは決して満足すべきものではなかったようである。
それは自分が考えていた美の境地に、程遠いものだったからであろう。
 では、自分が考えていた美の境地との違いは、何であるか。観客が満足しているのに、まだ何が必要だったのかである。
その違いは、「過去」の時間が空白になっていることであった。
芸に滲(にじ)んで現れた時間は、「現在」と次に来る「未来」でしかなく、過ぎ去った過去の時間はなかったようである。
と云う事は、この時点では準備されていた新しい衣装をまとった芸は、過去の時間を切り捨てたものであり、その分だけイメージしていた芸に深みの欠けるものだったのである。
島津亜矢さんは、こうしたことにまだ、芸の未熟さを感じたようである。
そして、その解決に2~3年の時間を要したかと思われる。

 ところで、自分の芸にこうした感じ方を持てたのは、世阿弥のいう「初心」の精神が芸に息づき始めた現象かと思える。
これは驚くべき成長である。自分に未熟さを感じるほどに人格が成長すれば、必ず芸は成長する。
というのも、このように「初心」の精神が芸の中に働けば、芸が前向きに動き出し、「寿福増長」「遐齢延年」の目標に再び立ち向かうものだと、世阿弥は説いているからである。
その意味では、松村和子さんとのコラボ「イヨマンテの夜」の芸は、世阿弥の云う「初心」の精神が、芸の中で働ける環境作りと、その基盤固めを施していた時期の芸だったようである。
だから観客には、このコラボで芸質の変化を、まだ感じられなかったのである。


 恵方巻向きもさだめず幼子の まるかぶりする口もきかずに




スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿