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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑤~「芸の魅力」⑳-⑪克服した芸域の空洞化(下の中①)



 投稿者  安宅 関平

 ここからは、島津亜矢さんが芸の上達に障害となる事柄に対処していたことが、舞台にどのように現れていたかを探してみたい。
その現れ方が、古いものの上に新しいものを乗せていくことを悟ろうとする時期と、悟った後の二種をみてみたいと思う。
 まず、悟ろうとする時期の芸についてである。
それは、すべての自分を世に晒(さら)すことに迷う姿の典型と思える芸である。かと言って、その芸は、充分に観賞に耐えられ、従来の芸と変わることはない。だか、変わったように見えるかの不思議さがある。
その芸は、以前(2017年3月25日投稿 「イヨマンテの夜」コラボレーション)に採り上げている松村和子さんとのコラボ「イヨマンテの夜」にみた「煮え花」での現象である。
「煮え花」については2017年3月15日投稿の、「内堀」において採り上げているから、ここではその説明は省くことにしたい。
 さて、「イヨマンテの夜」の芸にみた現象とは、歌唱する直前の口元の緩みと、眉毛や目のあたりの表情の、不釣合いな映像が、一瞬、クローズアップされて映し出された場面のものである。
その不釣合いな映像には、何故か純真な乙女の美しさがあった。
その美しさとは、嬉しさと悲しさが同居した清楚な心境が、真珠のごとき輝きを持つものである。
この真珠のごとき美しさは、披露しようとする楽曲に、情感を込めようとする瞬間の緊張という事情もあったが、それだけではないこともたやすく推測できた。
だが、芸はそうしたことに支障されず、従来同様の図抜けた上手さの好さをみるものであった。
図抜けた上手さの好さをみながら、表情の不釣合いが気になったのは、この時期の年齢が39歳であることに関係していたものと思われる。
というのは、39歳の時期は、芸風に変化をもたらす脱皮の準備にかかった頃であったと考えられるからである。
この脱皮への苦悩の一端が、こうした「煮え花」に一瞬出たものであろう。
それは、心中に複雑なものを抱えていたことの証である。
複雑なものとは、脱皮への迷い事である。
芸でいう本物の脱皮は、数年という時間を要するものである。それは積み重ねてきた苦労と努力が集大成される場面だからである。この場面こそ、そこには慎重な熟慮と技芸の完成を要するからである。その間、多種多様な悩みと苦しみと喜びと迷いを抱えることになる。しかしそうした苦悩は、舞台において隠すことに努めるという苦労が加えられている。

さらに別途に、披露する楽曲の歌唱表現方法の苦も重なっていたようである。
それは披露する楽曲においては、イヨマンテ(熊祭り)で芽ばえた、苦しい恋心を表現する内容になっている。その情感をメロディーと調和させるにはどのような歌唱表現にすべきかということであった。というのも、この楽曲に描かれている恋心は、メロディーに力強さがあるだけに何か工夫を織り込まないと、観客に充分恋心の良さが伝わりにくいからである。
 こうした脱皮の迷いの苦と歌唱表現の苦が重なり、ついつい「煮え花」の端に出たものと思われる。
ここに島津亜矢さんの物事に対する完璧主義と、それを隠せない素直さが現れている。

 ところでこの舞台で、純真な乙女の美しさをみたことの主因は、芸風に変化をもたらそうとする脱皮の準備時期にしか見られないところの、「特有の美」だったものと思われる。
それは、脱皮とは古い衣装を脱ぎ捨てることである。しかし、その古い衣装も、やはりその衣装を着たときは新しいものだった。しかも、その衣装を着ることができたのは、それまでの努力と苦労を重ねた結果の貴重なものである。それが次の新しい衣装ができるからといって脱ぎ捨てるのは、無限に近い感慨を覚えても不思議はない。
しかしながら脱皮による新しい衣装が準備されているという、その嬉しさも隠せないものである。
 この失うものの悲しさと得るものの嬉しさの悲喜こもごもの感情が、純真な乙女ごころに似たところの美しい現象として現れたものである。
だが、この段階ではまだ、古いものの上に新しいものを乗せていくことを悟れずにいた時期である。

 これが脱皮前の、障害に対処していることの舞台上でみられた現象である。
では、脱皮後の芸はどのようなものかを、次稿でみてみたい。


 まめを撒く節分来る年男 時季の変わり目掛け声勇む 




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