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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-④~「芸の魅力」⑱-⑧克服した芸域の空洞化(上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの「煮え花」の魅力は、「魅力作りの苦労」という芸の原点までみせるところにある。それは、すべての自分を世に晒(さら)していることでもある。
 では、すべての自分を世に晒(さら)すのは、どういうことでそうなるのか、その影響はどうなのか、そのあたりを探ってみたい。

 島津亜矢さんの芸に取組む「真摯」さは、熊本の人情からきている。しかし、その「真摯」さによる態度・姿勢の美しさは、「魅力作り」の宿命に要した「苦労」と「努力」によって生まれたものである。
そこで、その美しさは一朝一夕にして現われたものではない。30余年という積年の努力の延長線上のものである。言わば、それは過去からの芸の結晶とも云える。
「真摯」さによる美しさとは、その結晶が、舞台の上でポロリと零(こぼ)れ落ちるときに放つ光彩が、美しくみえるのである。ただこの時に、「魅力作り」の「苦労」と「努力」に要した傷跡も同時に零れている。これは芸能美の光と影である。

 島津亜矢さんは当初、影にあたるこの傷跡だけは、見せないように必死に努めていたようである。だが、こればかりは性格上、思うようにならなかったものと思われる。
 では何故、影を見せないように努めたかである。
それは本来、正統派芸人においては、芸に関する水面下の努力や苦労は見せたがらないところからきている。
というのも、この水面下の努力や苦労は、観客が求める芸の喜びに直接関係しないからである。
正統派芸人はこのあたりの見せるべき芸とそれ以外のものを、厳格に区分する信条がある。
その信条は、芸人個人の「悲」をもって「切情」を迫る芸は、芸に値しないとしたところから生じている。

 しかし、この水面下の努力や苦労を見せたがらないとする理由(わけ)は、芸に対する信条だけが、そのきっかけになっているものではない。
それは、「魅力作り」の苦労によって芸の進歩が図られ、芸の真髄に近づこうとするのはよいとしても、その犠牲となって失うものがあるからであろう。
その中で最大の難物は、その失うものによって芸が頽廃(たいはい)することである。
しかも、この頽廃の基となっているものは、舞台が華やかに喝采を浴びるほど激しくなり多くなる。すると、その悲しさも大きくなる。
島津亜矢さんの見せたがらないその本音は、この影から生ずる現象を避けたいとする思いも重なっていたのだろう。こうした本音は島津亜矢さんの心のやさしさから現れる症状である。

 ところで、この失うものは、芸に対する影響が大きい割には、実に他愛ないことから生じやすい。
それは、人間関係の疎遠化である。
疎遠化とは、幼いときから心が通じ合い支えあった人々や、魂の触れ合った人々、気心の知れた人々との関係が、遠のいて往くことである。
原因は、徐々に愛の確認が出来なくなることから生じている。それが馴染み深い人々の減少につながるという結果をもたらすのである。
ただ、それに倍して新しい人間関係もできるはずである。
だが、古いものの良さは、共に費やした時間を取り返せて、今後の活力に生かせるという重みがある。この重みは歩んできた人生の年輪でもある。この年輪がしっかり刻まれて、目が細かいほど丈夫で長持ちし風雪に強い。新しいものにはこれはない。
疎遠化によってこうした心強い年輪を無くすことは、木の幹の中が朽ちて空洞になることを意味する。
この現象は、云わば「心」の空洞化である。心の空洞化は芸の空洞化につながる。芸の空洞化は魅力の劣化につながる。それは心の無い芸は無味乾燥だからである。
この流れの怖いのは、心の空洞化で芸の空洞化が生じることである。何故であろう。
それは、島津亜矢さんも歌っている「温故知新は人の道」という精神が崩れることを意味しているからである。
 温故知新の精神が崩れると心の豊かさが細る。すると、「魅力作り」の苦労によって得た技芸で、芸の真髄に近づこうとしても近づけないのである。それは空洞化で真髄への道が細くなりそして、いつしか無くなっているからである。
温故知新の精神が崩れて、心の豊かさが細る弊害はここに現れる。これは正統派芸人の、最も恐れる事態である。

 これが「魅力作りの苦労」という芸の原点の支えをもって、芸人が成長する過程で遭遇する事態の、ありのままの姿である。
 では、そうした事態にどう対処し、どのように防ぐかは、次稿で触れてみたい。


 雪風巻(ゆきしまき)雪下の麦の芽顔だせず
             ふくら雀ら軒(のき)よりのぞく




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