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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-③~「芸の魅力」⑰-④島津亜矢さんの芸の深層(中の上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの歌唱には、歌の奥にある「芸の誠」を観客と共に探したいとする姿勢がみえる。
では、何故、自分だけでなく観客をも誘うのであろうか。
それは、「芸の誠」を共有したいからであろう。
 ところで、この「誠」の共有は、並みの芸人には思いもつかないことである。
と言うのも、並みの芸人においては、芸が「本物の芸・生きた芸」の領域に接する面が少ないという要因があるからだ。
だが、そうしたことの有無に関わらず、本来芸なるものは、芸の矢を射る芸人とその矢を受ける観客とは、「楽しむ」という行為を挟み対立する立場にある。
そのため、芸人は「楽しめましたか」と必ず問いかける。これに対して、観客は「楽しめたよ」と応えることが多い。その結果、「それは、よかった」として、芸の披露はこの双方の安堵によって、めでたく落着する。これが現在の一般的芸能鑑賞となっている。
 しかし、「本物の芸・生きた芸」においては、そこで終ることはない。
その奥に何か訴えるものを忍ばせ、残している。
それは「人間の本性」と云うべきか、あるいは「生物の本質」というべきものである。これを含んでいるのが「誠」である。
この「生物の本質」の詳細については、前稿で先送りした「誠」の詳細と同様に、後日に別稿において投稿の機会を持つ予定から、ここでは採り上げない。

 さて、では芸がその奥に忍ばせている「誠」を掴むには、どうすればよいかである。
それには、観客においては「誠」を見い出せる鑑賞力を必要とし、芸人においては「誠」を見つけ出せる余力のある芸を披露する必要がある。この二面がなければ「誠」は掴めない。
余力とは、芸が聴く者に精神的余裕を感じさせ、芸の周りを観察できるゆとりを与えることをいう。
では、その余裕はどこから来るかである。
それは歌い手の音域、声量、リズム、個性、歌唱の技法等々が、楽曲に複雑にからみあって豊かな美しさを発揮するところから来るものである。
これによって感動が舞込む。この感動が鑑賞力に変身する。この鑑賞力が、芸の奥にある本質を感じ取るのである。ということは、観客の鑑賞力は芸人の余力ある芸から生まれることになる。

 その意味では、島津亜矢さんの芸には、何故か十二分な余力が感じられる。
ただ、島津亜矢さんの場合は、その余力は音域、声量、リズム、個性、歌唱の技法のよさというだけではない。目先のことにとらわれない、先を見据えた目的と言う目標を持っていることからもきている。
島津亜矢さんはこの目的を、常々口にしている。
それは、「お客様の心に響く歌が歌えるように」という主旨の言葉である。
この心に響く目的の芸が、いわゆる世阿弥の説くところの、「芸があらゆる人の心を豊かにし、感動を生むことで『寿福増長』『遐齢延年』の効用を生む」としたことに通じている。これは芸能の本質である。
島津亜矢さんは芸の目的を「心に響く歌」とし、その歌をもって芸能の本質に迫ることを目標に精進しているものと思われる。

 こうしたことから、島津亜矢さんは先を見据えた目標の攻略のため、自分の芸が観客の鑑賞眼力を養う機会となるよう、芸に充分な余裕を持たせて「誠」を探そうと誘っているのである。
そして、観客がその「誠」の輝きを見つけたり掴めたりしたときは、その芸は更に観客の心をより強く締め付け、歌唱に誘導されるがままに、心地よく芸について行こうする決心がなされる。
この決心こそが、人格が一皮むけて向上する働きをなすきっかけとなるのである。そのきっかけを大切に熟させてると、結果として豊かな人間性につながることとなる。
世阿弥のいう芸があらゆる人の心を豊かにするとは、こうした現象を指すものであり、また、島津亜矢さんの歌の奥にある「芸の誠」を観客と共に探したいとする姿勢も、この現象を促すためのものである。
 このことを言い換えれば、真摯さと誠実さと謙虚さを感じる芸の美しさに魅せられるものがあるのは、芸の奥に潜む「誠」が美しいからである。
この「誠」が美しいと感じることは、鑑賞力をもって「芸の誠」を掴んだ証である。その証の具体的内容は、芸を表現する芸人や楽曲の製作者の真情・真実性に、共感できたことであるといえる。
 島津亜矢さんの「芸の誠」を観客と共に探したいとする姿勢には、こうしたことを共有したいという心の優しさがあるからであろう。


 ところで前稿の最後に、12月31日の第68回紅白で、NHKが島津亜矢さんの着物を脱がせられるか、この攻防が見ものだと記した。
そこで、攻防している両者の心境の要旨は、北島三郎さんの歌唱曲「山」と「川」に表現されているように思える。
 島津亜矢さんは、NHKの攻めに対して、「もっこす精神」を発揮すれば、そのこころは「川」の歌となる。それは島津亜矢さんらしい返歌である。
   「川の流れと 人の世は 澱みもあれば 渓流もある
    義理の重さを 忘れたら 立つ瀬なくして 沈むだろ
    黙って 男は 川になる」

 一方、万が一、NHKが島津亜矢さんを攻めあぐめば、そのこころは「山」の歌に似た心境になるだろう。
   「流れる雲の 移り気よりも うごかぬ山の雪化粧
    頑固印の野良着をまとい 生きる師匠の 横顔に
    おれは男の 山をみた おれもなりたい 山をみた」

さて、この攻防の決着は、今日見ることができる。楽しみである。


 いさぎよし藪のかたわら落椿 白雪のうえ音も立てずに





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