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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑮-③~「芸の魅力」、布施明さんとのコラボでの芸域


 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの舞台芸の中で「芸域の広さ」を感じる事例についてである。

 一般的に芸域が広いとは、歌える楽曲の量、ジャンルの幅、歌唱時間の長短、リズムの種類等を問わずに歌いこなす芸人を指すものであろう。それはそれで楽しいものである。
だが、ここでいう「芸域の広さ」とは、こうした表面上の現象から少し距離を置いた芸の、芸域を見つめてみたい。
というのも、仮に1000曲も2000曲も歌いこなす芸人がいたとしても、それだけで芸が「七色に輝くか」である。
七色に輝くとは、その芸に心が宿つて光り輝くことである。心の宿らない調子で1000曲、2000曲歌っても、それは1曲でしかないように感じられる。テクニックや知識だけの芸は、芸とはいえないということである。
 ここで言う芸とは、芸人が楽曲の心を自分に取り込み、幾度も反芻(はんすう)してその心を考え・味わい・熟知し、そこから得た自分の味を芸の中に表現することでなければ芸として通じないものであると、世阿弥は後継者に伝えているからである。
さらに、反芻による味の要は、他人の心を解する能力にあると言っている。
他人の心を解する能力は、その人の経験則によって得られるものである。
人は生まれて10年程度の間に、喜怒哀楽の基本となるすべての経験を味わう。その後は、その経験を応用し他人の心を解する能力を養うのである。その能力を芸に持ち込めるかは、その芸人の力量であるとしている。
 このように芸に「芸域の広さ」を感じる基盤は、芸人のこうした「心」の中にあるというのである。

 ところで、島津亜矢さんの芸には、上記の他人の心を解する能力の力量が豊富なだけではなく、それに加えて「宿命」を大切にするところがみられる。ここが他の芸人さんとの違いである。
それは、いかなる場合においても、人が目的を成し遂げるには、努力と苦労を背負うという「宿命」があるということである。買えない足袋の一足の苦渋は、その最たる事例である。
 さて、野球界で松井秀喜さんがそうであったように、芸能界で島津亜矢さんがそうであるように、天才といわれる人ほど、その「宿命」を大切にしている。その意味では、天才という言葉は、「宿命」を乗り越える能力の大きさを指しているようである。
 その努力と苦労を背負う「宿命」には、それぞれが取組む目的によって種類がある。
松井秀喜さんの野球における「宿命」の種類は、より多く球を遠くへ飛ばすことにあった。
島津亜矢さんの芸能における「宿命」の種類は、「魅力」を求める観客に「極める芸」で応じる「魅力作り」にある。これが熟すれば「衆人愛敬の芸」に化けるのであろう。
 特に、島津亜矢さんの芸に拡がりを見るのは、過去から積上げたところの「魅力作り」に要した宿命の跡が、顔を出すときである。
この「宿命」の跡は、音楽のジャンルとかリズムの種類とかを問わず、歌唱のすべてに顔を出す。それは「秘すれば花」に紛れ込んでいたり、「煮え花」や「お焦げ」の中に存在していたりする。
観客はそれを見聞きするたびに芸に拡がりを感じ、心に余裕を覚える。
島津亜矢さんの芸には、この余裕が歌う楽曲のジャンルや舞台の構成に関係なく生じることから、結果として、それが「芸域の拡さ」となって印象深く残るのである。
では、その具体的舞台芸の事例を挙げてみたい。

 それは、2009年3月15日、及び2017年10月29日NHK放映の「BS・日本のうた」と「新BS・日本のうた」で披露した北島三郎さんとの共演の芸である。今ひとつは、2015年11月24日、NHK放映の「歌謡コンサート」で島津亜矢さんの見せた布施明さんとの「マイ・ウェイ」のコラボレーション歌唱である。
北島三郎さんとの共演の芸は、2017年11月15日の投稿で採り上げているので、ここでは布施明さんとの「マイ・ウェイ」のコラボレーション歌唱を採り上げる。
ただ、知人によると、布施明さんとの「マイ・ウェイ」のコラボレーション歌唱は、これが二回目だという。一回目のそれは恩師・星野哲郎氏が鬼籍に入られた2010年の頃だというが、その歌唱はお目にかかっていないことから、対象からはずすことにする。今回、採り上げる歌唱は、2010年のそれから5年経過した時のものである。

 ところで、2015年11月24日の歌唱で何がそれほど印象に残ったのであろう。
 それは、第一に芸に対する真摯さである。
真摯さは、脇目も振らない一所懸命さに感じられる。
 第二は、誠実さである。
誠実さは楽曲に対してもそうであるが、コラボレーションの相方に対してもそうである。
楽曲に対しては自分の分身に似たもののように、「親身に尽くすがごとき」気持で取り扱っている。
相方については、接し方に真心が篭もっている。
 第三は、謙虚さが終始滲み出ていることである。
謙虚さは、観客に対しても相方に対しても、礼に始まり礼で終えていることで感じられる。
ここにみるものは、自分の芸の至らなさを自認し、観客や相方から学ぶべきものがあればなんでも受け入れようとする貪欲な態度を、失わないでいることである。
そのことを感じる典型が、芸の最後の態度や仕草に現れている。
それは、最後に誠心誠意で歌唱した楽曲に、込めらた思いの丈が果たされたことを感謝するかのように、布施明さんに対して「ありがとうございました」と云わんばかりに深々と頭を下げ、間髪を入れず、わずかばかり浮かべた笑顔の美しさを伴なって観客席へ同様の挨拶をしていることである。
このようなさまに見られるように、観客の心をつかむのは、歌唱の良さということだけではない。この誠意を尽くす芸にみる謙虚さも歌唱に劣らず魅する力を発揮している。
観客はこれによって、満足感が十分に充たされ心がまろやかなものになる。目つきまで穏やかなものに変わっていくのがよく分かる。

 そこで、島津亜矢さんの「芸域の広さ」は、楽曲の心を自分に取り込み、反芻(はんすう)して味わった上で、その味を芸の中に表現する努力によって、豊かな人間性が養われることから生まれていると言えよう。
このことを言い換えれば、その養った人間性から零(こぼ)れる真摯さ、誠実さ、謙虚さをバネにして、「魅力作り」という宿命を大切にする心得がより太く育ち、その心得に添える芸が磨かれていく、この過程が芸域の拡がりとなって感じるのであろう。
こうした「心」の循環によって生まれる芸が、「芸域の広さ」につながっているものと思われる。
 芸域の広さを楽曲の量、ジャンルの幅、歌唱時間の長短、リズムの種類等、表面上の現象から距離を置いた芸としたのは、こうした事情からである。その意味では「技芸の深さ」も同様であろう。


 年の瀬はめぐみを受けた田の神へ 
        こころを尽くす饗(あえ)のこと(祭)どき




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