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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-②~「芸の魅力」⑮-②観客がもつ芸の「魅力」


 投稿者  安宅 関平

 世阿弥は、芸が芸として成り立つ条件のひとつに、「魅力」と「極める」の関係を説いている。
それは「魅力」と「極める」という二本の原糸が、芸人の手によって揉(も)まれ、撚(よ)られながら、芸という一本の紐になる。その紐が徐々に太くなり「真実の花」のある場所に至る道へ、誘導してくれる。それによって、徐々に芸が芸らしくなってくるとしている。
 しかし、このままでは、それはどのようなことかは理解しづらい。
そこでまず、「魅力」と「極める」との関係を探る前に、その関係を構成している「観客が芸に『魅力』を感じる」ことと、「芸人が芸を『極める』」ことの二点について、それぞれどのようなことなのかから探ってみたい。

 まず、本稿では、「観客が芸に『魅力』を感じる」ことについてみてみる。
 芸の「魅力」とは、観客が、劇場などで接した芸に深く感じ入り、心を動かされることを言う。
それは、簡単に言えば、芸の虜(とりこ)になることである。
観客が芸の虜(とりこ)になるほど芸に心を動かされるその要因は、芸風が「芸域の広さ」と「技芸の深さ」を伴って、芸を美しく見せ、大きく感じさせるところにある。

 では「芸域の広さ」とは、どのようなことであろうか。
芸域の広い芸とは、一人の芸人が質の違うイロイロな芸を見せてくれることである。いわば、それは七変化の芸かと思われる。
七変化の芸ほど芸風に幅広さを覚えることはないからである。
 それは布団の中綿が七重になっているようなものである。しかもその中綿を取り出して拡げると、色違いの綿が七枚もでてくる。その彩(いろど)りの豊かさと、広さは布団の七倍ものものになる。
この彩(いろど)りの豊かさと広さが、芸にふんわりとした厚みと拡がりをみせるのである。この厚みと拡がりが、観客のこころに豊かさと温かさを覚えさせ、何故か余裕の持てる幸せを感じるのである。
観客は、こうした余裕の幸せによって芸に心を信託するがごとき、いつしか芸に身を委ね、そこから受ける喜怒哀楽の情感の変化を楽しむのである。
七変化はその要(かなめ)を握っている。
そのためか、「芸域の広さ」を持つ芸人に接すたびに、七変化への期待が胸をよきる。そして心がときめく。そのときめきが七変化の中味の想像をかきたてる。すると心が弾む。この弾む心がときめき以上に楽しく幸せで美しい時間となる。この時間が芸から受ける感動に匹敵するほどの値打ちをみるのである。
そして、舞台から受ける芸が、期待通りのものであれば、それは美しい花に、数多(あまた)の蝶(ちょう)が群がる様(さま)に似た時の美しさであり、楽しさになるのである。
ここに芸域の広さが持つ魅力の良さがあるといってよいだろう。
これが芸の虜(とりこ)になるという意のことである。

 この場合、大事なのは、観客は芸人の芸自体に、非常な信頼を寄せていることである。それがなければ、芸域の広さの持つ魅力という現象は生じて来ない。器用さを感じるだけで終わってしまう。器用さには味はない。
ところで、信頼を寄せるその拠(よ)り所は、披露された芸に、積み重ねられている「努力の跡」をみることにある。
足袋の一足も買えない粒粒辛苦の耐乏活動に耐え、積み重ねた努力のその跡は、どのような風雪にも耐えられる強靭(きょうじん)さが、宿(やど)っていると感じられる魅力をみるからである。
七変化の芸は、そうしたしっかりとした基盤の上に成り立っているから、味があり信託力が強まるのである。
 では、こうした「芸域の広さ」を感じる具体的事例が、島津亜矢さんの舞台芸の中にあるかを、次稿において探してみたい。


 凛とした名前が響く寒鰤に ひらりと散るや雪の花びら




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