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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑩~「芸を極める道」・その出発点③-③ 日和見主義と審美眼 (下)



 投稿者  安宅 関平

 前稿において、大衆が芸能鑑賞の際に、美の本質をつかみ取る能力である審美眼を鍛え持つことは、芸の凋落を防ぎ、大衆自体の幸せにつながるとしたものであった。
その具体的効果について言えば、「芸の凋落」においては、一部の輩を「利」に走らせないことである。
また、芸人においては、「楽」より「苦」を選ぶことである。
それは、芸の本質である訴える能力を増すために必要なのである。
その必要を充たすには、切磋琢磨する競争原理の渦中に入ることが望ましい。その渦中で訴える能力という芸質の向上を図るのが、もっとも効果的なのである。
次に、「大衆の幸せにつながる」ことでは、芸質の向上によって世阿弥のいう「寿福増長」「遐齢延年」を増幅する働きが期待できるからである。

 では何故、審美眼がそのような変化をもたらすかである。
それは大衆が審美眼を持つことによって、芸人は見る人の嗜好にかなった芸をすることに主眼を置くからである。このことは、見る人を尊重することにつながるのである。
 この現象を、世阿弥は「衆人愛敬」という言葉で表現している。いわば衆人尊重論である。
世阿弥はさらに、芸人には「寿福達人の為手になれ」とも言っている。
それは衆人の寿福を、増長させられる芸人であれと云うことである。
これは、人間が求める最大の幸福は「長寿」とか「不老不死」であるが、芸にはそれを生み出す効用があるとする発想からきている。
こうした「衆人尊重論」とか「寿福達人論」においては、難解な芸を推奨してはいない。深みのある芸をせよといっているのである。
深みのある芸とは、平易な演技の中に陰(いん)に篭もった心が、伝わる芸を指している。それによって、芸に対して「貧しき眼」も「豊かな眼」も楽しませることができるとしたものである。
これが神仏を祭り、あらゆる人々に愛されるという芸の原点だと説いている。
大衆が審美眼を鍛え持つことが、このように、芸が原点に立ち返ることを意味しているのである。

 ところで、島津亜矢さんの芸には、芸人に対して求める大衆の審美眼の要求を大方消化した痕がみえる。そしてその痕からは、木霊(こだま)が帰ってくるかのように、大衆の審美眼を逆に育てる魅力が備わっている。しかもそこには、どのような権力にもぶれない芯があり、媚びない信念がある。
このような芸が、大衆の眼を肥やし育てるのである。
ここに「芸の正道」が正道である所以がある。
 「芸の正道」の魅力は、こうしたところまで及んでいる。
その意味では、島津亜矢さんはもっともっと芸に必要な自信を持つべきである。ただ、必要以上の自信は捨てるべきである。
その意味するところは、いつの時代でも島津亜矢さんが「今、歌いたい」と思われる歌を歌うことが大切たということにつながるのである。
本来、歌というものは自分が歌いたいと思われる歌が正道の芸になり、大衆を育て、世を正常化させる芸となるのである。それがしいては、芸能の最終目的である「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」を大衆に与えることになるといえよう。
 島津亜矢さんの芸は、いまひとつの自信を持つことで、こうした芸能の最終目的の汀(みぎわ)まで達すると思われる。しかしその汀(みぎわ)への前には、深い谷と高い山がそびえている。基礎体力のない芸人の多くは、ここで芸人としての落命が待っている。
それは世阿弥のいう「心ざしのない技芸」と「極める技芸」・「極めた技芸」の違いがそこにあるからだろう。
その違いは「無」の境地の有無にある。その境地は、深い谷と高い山を乗り越えなけれは得られないものである。これを越えるには相当の努力と時間が必要かと思われる。しかし、この必要とする努力と時間の克服に関しては、島津亜矢さんの得意とするところである。自信を持つとは、このことを指すものである。

 ただ、しかし、島津亜矢さんの得意とすることに、最も必要なのはファンの支援である。それは、ファン以外に何のバックも無い芸人にとってファンの支援こそ、心強い味方であり、宝である。
何故なら、三越デパートの隣で、間口1間、奥行き2間の個人商店が商(あきな)いをしているようなものだからである。幸い、この個人商店の品質が三越より優れているために、幾らかの客の出入があり何とか生計は立てられている。
 ところで、品質が優れているためか、島津亜矢さんの回りに集まったファンは並外れて芸能鑑賞の質が高い。それは、芸を愛で、育てる人たちの集まりだからである。その意味では、島津亜矢さんを育ててきたのは、ファンだったのかも知れない。特に島津亜矢さんの二十歳代からのファンには重い石のような信念があった。それは素質のある芸人を、育てなければならいとした信念であった。
言葉を変えれば、このようにしてファンが作り上げたビッグスターは、島津亜矢さんが日本で初めてということになるかも知れない。
 ということは、島津亜矢さんに今後、深い谷と高い山を乗り越える芸の精進を求めるためには、その前にファン自身が審美眼を磨く精進が必要になってくるようである。
ところが、コアなファンにはこの精進をすることが、また楽しみなのである。何と世の中は、うまく出来ているようである。

 そこで、若い諸氏に伝えたいのは、演歌は嫌いだと感じられるのはそれはそれでよいとしても、上記によって演歌に芸の深さをみることには、異論はないものと思われる。この深さは芸能全般に共通したものであるからだ。
この共通したものを演歌が、中でも島津亜矢さんが、最も分かりやすく表現していると思われる。
どうか、諸氏においては、芸の深さをみるこの精進を積んでくれることを祈っている。それは己のためでもあると思う。


 柿の実を明日は取ろうと迷ううち からすにさらわれ秋は終れり






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