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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-④-①~「芸を極める道」・その出発点⑬-⑦2015年の紅白 会場との対話(上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの芸は、「島津亜矢の世界」というブラックホールによって、そのよさを充分に堪能できるのは何故かである、そこには慈愛に満ちた「秘すれば花」と、それを引き立てる「煮え花」と「お焦げ」の花が見えるからであろう。
このブラックホールは、1992年リリースの「瞼の母」辺りからその姿の一部を見せ始めている。そしてその後20数年間、努力を積み重ねて、強い吸引力を持つブラックホールに成長してきたのである。
 今日の世間は、このブラックホールの持つ吸引力の強さと魅力を、騒ぎ立てている。このブラックホールを以前から知るものにとっては、何を今更、15年も遅れていると思われるかもしれない。しかし、これが芸術的性質を持つ芸能の現実でもある。
そこでここからは、この騒ぐ不思議さの謎を掘り起こしてみたい。

 島津亜矢さんの芸を、観賞する時に常に思うのは、芸の質に高さを感じることである。それは、2015年の紅白の<帰らんちゃよか>の歌唱にもみられるように、「魅力」と「人格」という表裏一体のものを追い求めている姿勢を感じる芸だからである。
そして、コンサートなどで観賞を重ねるたびに気付くのは、常に前回の芸より高品質な技芸の衣をまとった芸を披露する魅力である。この面白味は、他に類を見ない。
 実は、ここに本物の芸の特質があるように思える。
この特質は、2015年の紅白にも発揮され、本物の芸に慣れない大衆の度肝を抜いて衝撃を与えている。
このような芸については、別の見方をすると、それは本物の芸でしか味わえない美の奥深い楽しさや、面白味を持つものであるからだと言ってよいかもしれない。
その技芸の特質は、一所懸命に努力する姿に現れる「誠実な慈愛」の芸だというだけでなく、そこには苦労と工夫を重ねた芸の「匠」としての「技(わざ)」が滲(にじ)んで輝いていることである。
世に多く芸人はいるが、「匠の技」を披露する芸人はそんなに多くはない。
大多数は、芸の「テクニック」を競って披露しているようである。

 ところで、「匠の技」というのは、「テクニック」とは少しニュアンスの違いがある。
「匠の技」とは、工夫を凝らす技術のことであり、そこには臨機応変に変化する美の塊(かたまり)が内蔵されている。
しかもそれは、人間の心の苦心によって形(かたち)作られ、愛で支えられている。そのためか、芸に深みがあり、慈愛が感じられる。
一方、「テクニック」とは、専門的技術面を指し、過去の永い経験から編み出されたものである。編み出されたそれは、美を「型」として形式化したものである。美を「型」に固めて形式化しているから、そこにある愛も固まっている。固められた愛は、もはや愛の働きはしない。かといって、形式化されているから、別個の愛が入り込む余地もない。だから一見、芸は美しくは見えても、その美はメッキのように薄く感じられる。そこには、人肌に触れる愛がないからであろう。
このように、「匠の技」と「テクニック」の違いは、芸にいつでも人間の愛や心が入り込める余地があるか否かにある。
こうした柔軟性の違いに、この「匠の技」が芸を面白く楽しくする秘訣を詰め込んでいることがよく分かる。
その意味では、世阿弥は「匠の技」で出来上がった芸は本物の芸であり、「本物の芸は生きた芸」と言ったのはよく分かる。

 では、芸を面白く楽しくする「匠の技」とは、どのような技かを幾つか具体的に挙げてみたい。
その一つに、会場の雰囲気が芸の流れで、刻々と変化する不安定な「場の気」を、正しく捉えるという技の能力である。
「場の気」とは、会場の流動的な空気を指すものである。
 2015年の紅白での<帰らんちゃよか>の歌唱の場合にもそれがある。
前後に披露される楽曲の流れの中で、会場がどのような反応を示しているのか、その「場」の流れを見極め、それに対処する芸を披露することが肝要だということを、島津亜矢さんの芸は示している。
それが湿り気の中に乾いた歌唱部分を僅(わず)かばかり散りばめた歌唱だったのである。これによってリズムを変えることなく、歌に変化をもたらしている。
これは、人と人が対話する時、相手の表情を見ながら話をすることに似ている。相手の表情によって、思いやったり、厳しさを増したりすることの臨機応変さとその質は同様なのである。


チンチロリン鳴くまつむしの涼けさに葉陰へいそぐこうろぎの肢(あし) 




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