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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-②-②~   「芸を極める道」・その出発点⑬-④2015年の紅白 「匠の技」(下)



 投稿者  安宅 関平

 前稿に続いて、乾いた歌唱部分を僅(わず)かばかり散りばめた歌唱の働きは、曲調の異質性による拒否反応を解消させただけでは収まっていない。
 その二つ目として、その歌唱は聴く者にわずかの明るさを感じさせることで、受け入れやすくなって聴こえたことである。
それによって心底に眠っていた人間の不安な情念が揺り動かされたものと思われる。
不安な情念とは、生活の基である人の絆の希薄化である。
それが今現在、自分の身に起きようとしているとか、近い内に起きそうだとか、あるいは遠い将来起きるであろうとかの、「予感」や「予知」を窺(うかが)う気持の起きる動機を含んで感じられるものを指している。
それは別居による家族の分散化とか、少子高齢化、晩婚化、さらには非正規雇用に代表される格差の拡大や、資本主義経済のグローバル化による効率化と称する競争原理の激化等が相まった、社会病理現象からくる個人の孤独化が蔓延する生活の中に置かされいることで、身に詰まされる現実が身近に起きているからである。
この乾きを散りばめた歌唱の<帰らんちゃよか>の味わい深さと拡がりを持ち合わせた歌唱が、そうした「予感」や「予知」までを内心に発生させるように聞こえたことが、会場のざわめきを静寂に変えていたようである。
そうした意味では、ざわめきを静寂に変えたものは、この歌唱から発生した「予感」や「予知」だったのである。
では、「予感」や「予知」を内心に発生させた歌唱は、歌を聞く観客や視聴者の脳裏に、どのような形に刻まれたかである。
それは、遠隔の地にある親と子が、それぞれの場所で、曙の明かりを仰ぎ見ている姿を想像させ、そこに、生きる勇気と精力を得るという希望を見い出す動きに変わっているのである。
このように観客や視聴者は、歌唱にみるわずかばかりの明るさで、そこに映って見えるものは、曙の光りが親と子を深い絆で結びつけている光景である。そしてその光景は、今を生き明日につながる希望を互いが信じ合う温かな心情と、ささやかでも明日来る春を待つ姿のその美しさが、そこに被(かぶ)っていることである。
観客や視聴者は、こうした歌唱の働きの中に、絆の温かさや良さを自分に重ねて楽曲を聞けたことで、過去を懐かしんだり、今を思いやったりしながら、そこに甘い蜜を見い出して、心を癒(い)やせることにつながったのである。
聴く者にとって、自分が投影できるその癒やしの中で見るものは、暗闇が曙の黄赤色に染っていく神秘な美しさと、それを見上げる神聖な二つの人影である。そこには、厳(おごそ)かな望(のぞ)みの拡がる世界がある。
それを見ることによって、いつか自分が壁に突き当たった時、この歌に触れてみたいと思うのである。そう思うことが、癒(い)やしを求める潜在的な願望を、満たすことにつながっているのである。
これは、現代人が日々凌(しの)ぎを削る生活と、不確かで見通しの立たない世の現状にあっては、我欲を満たせないことの必然性によって生じる現象である。
ここに、乾いた歌唱部分を僅(わず)かばかり散りばめた歌唱が、聴く者の心の支えとなる格好の歌唱になったものと思われる。
そこに、あのざわめいた会場に、静寂を生んだものがあるのではないかと考えることで、納得ができそうである。

 このように、島津亜矢さんはこの楽曲に、親子の心情に限りない絆の深さを被(かぶ)せた従来よりの歌唱表現に加えて、この度は明日へつながる希望を伝えようとした苦心が、そこに見受けられたのである。
この苦心こそ、「匠の技」である。


 旅宿の揃いの浴衣身に着けて 涼をいただく渓流の床




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