FC2ブログ

幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-②-①~「芸を極める道」・その出発点⑬-③2015年の紅白 「匠の技」(上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんにおける<帰らんちゃよか>の楽曲は、湿り気の強い歌唱法がよく似合うところがある。
それは、齢が重なるほどに、活力の欠け方に激しさの増すことを自覚する親が、その活力の減退に反比例するかのように強くなる我が子の幸(さち)を願う心情と、その一方で遠隔の地で親元を離れて住む子が、時間の経過に伴い積んできた短い人生経験から、親への敬慕が高まる心情を、楽曲の裏側で物語ろうとすることにある。
そこで、この二つの慈愛が混在した肉親の絆の表現には、哀れむような深き愛を必要とすることから、湿り気の強い歌唱法の似合う要因になっているのであろう。
島津亜矢さんは従前より、この楽曲をセンチメントな情景に添った湿り気傾向の強い歌唱で表現しているのはこうした事由からかと思われる。

 ところが2015年の「紅白」では、この湿り気の中に乾きを感じる歌唱部分を僅(わず)かばかり散りばめての歌唱に聴こえたような気がしたのである。
それは「気がした」という程度だから、一般的には楽曲の大勢に影響しないもののように思われる。というのも、うっかりしていると見逃しかねないほどのものだから、それは従来の歌唱と変わらないと感じてもおかしくはないからである。
 しかし、こうした見逃しかねないそこのところに、島津亜矢さんの芸の巧みさが光るのである。
というのは、このわずかばかりの乾きを感じる歌唱部分によって、湿り気が幾分か押えぎみになっている。
この湿り気の押えぎみが、従来の歌唱よりも若干さらりとしたあっさり感を楽曲に与えたのである。その若干のあっさり感が、ひそかに胸を膨らませるような希望の明かりが見える兆しを、楽曲に感じさせている。その明かりは、暗闇の中に浮かび上がる曙(あけぼの)の、尊くおごそかな淡い光りに似たものであった。
 このように、乾きを感じる歌唱をほんの僅(わず)かばかり散りばめたことによって、楽曲の印象がこのように変化をもたらしている。
この変化による楽曲の印象は、聴く者の人心を捉える二つの効用を生んだのである。
 その一つは、「陰・陽」効果の発揮である。
その二つ目は、楽曲をより受け入れやすく感じる効果である。

 ではまず、「陰・陽」効果について探ってみたい。
それは、島津亜矢さんの歌唱の前後に披露された<SUN>や<私以外私じゃないの>の、舞台上での楽曲の性質は、向日葵(ひまわり)が浴びる真昼の陽の光りのように、その量と明るさは半端ではないものを感じるものであった。
それとは対照的に、<帰らんちゃよか>の楽曲の性質は、夜明けまじかの曙の淡い光りで、それは朝顔の露にきらりと差し込む光線の光彩陸離の様のごとき輝きで、しなやかな柔らかさと、爽やかさの映えを覚えるものであった。
ここに島津亜矢さんの「巧みの技」をみるのである。
前後の楽曲が発する光りの性質を利用した歌唱の工夫を、そこに見るからである。そして、そこから生まれたものが、真昼の直射日光に早朝の曙で対峙するごときの効果である。
この対峙の効果は、舞台での芸の流れの印象によく出ている。
<SUN>と<私以外私じゃないの>の間に挟まれた<帰らんちゃよか>の歌唱は、光の量と輝きの印象よって、「明・暗・明」の波紋で芸が流れる印象を持つ。その中で島津亜矢さんは、「明」と「暗」の落差を印象強く浮き上がらせていることである。
これによって、普通ならさざめかしい雰囲気の会場に埋もれるはずだったの芸が、逆に引き立った芸に変身したのである。これが言わば、「陽と陰」の対比に見る効果であろう。

 こうしたところに、島津亜矢さんの芸人としての「匠の技」をみたのである。
しかも今回の「匠の技」は、「陰・陽」であって「明・暗」ではないところが味噌である。
というのは、<SUN>や<私以外私じゃないの>という「動」の楽曲に対する<帰らんちゃよか>の「靜」の楽曲の、対峙の仕方の巧(うま)さである。
それは、「真昼の明るさ」に対して、「真夜中の暗闇」ではなく「明け方の曙の明るさ」にしたことである。そこに双方に光の「明るさ」という共通点を持たせたことが、その味噌の中身である。
それは光の有無ではなく、強弱という光の性質での対峙だということになる。舞台上では、これによって、前後に披露される楽曲の「明かり」を、<帰らんちゃよか>に幾分か反映させるといういわば、庭園用語でいう借景の働きを連想させるのである。
しかもそれは柔らかで人間に優しい光の「明るさ」という性質の歌唱に工夫しているから、その効果が視聴者の胸を打つのである。
そしてここで見過ごせないことは、島津亜矢さんの芸にその効果を生む器量という能力が、無意識に発揮される凄さのあることである。
 こうした「技」が仕組まれていたのが、僅(わず)かばかり乾きを感じる歌唱だったのである。
これによって今回の舞台での、三つの難題のひとつである曲調の異質性の中に置かれた第一関門は、クリアされていたのである。

 これは、「芸の道楽」から島津亜矢さんの芸を、かような見方で楽しむことで、面白いと思われる一面が発揮された事例である。
その面白さの続きとして、次稿では二つ目の「楽曲を受け入れやすく感じる効果」について探ることにしたい。


 カナカナとひぐらしの鳴く夕暮れに 枯葉がひとつ夏が終わると




スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿