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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑨-③-②~「芸を極める道」・その出発点⑦-⑥外堀は鑑賞眼 鑑賞力(中) 



 投稿者  安宅 関平

 芸を楽しむ手法が能動的鑑賞法でなければ楽しめなかった時期は、過去に何度かあったものと思われる。その中でも代表的な時期として、室町から安土桃山にかけてと、幕末から明治の初期にかけての頃ではないかと思われる。そして今、何度目かのその時期を迎えているのかも知れない。

 そうした中にあって異色の芸を披露する芸人がいる。
それは島津亜矢さんである。
 島津亜矢さんの芸には、その芸に接するだけで、鑑賞力を養ってくれるところがある。
これは、能動的鑑賞法の働きによる一連の現象から発生しているものでない。世間に能動的鑑賞が蔓延している中にあって、これは不思議な現象である。何が不思議かといえば、受動的鑑賞法によりこの現象が発生しているからである。
 世阿弥はこの受動的鑑賞法を芸能観賞の本流とし、能動的鑑賞法を亜流としている。
 現代の大衆は、本流の芸能鑑賞に耐えられない芸に妨げられ、鑑賞力が脆弱になっている。だから本流で鑑賞できる芸を亜流で鑑賞する羽目になっている。そのため、本流で鑑賞できる芸には馴染めないでいる。だから、ここ40年近く本流で鑑賞できる芸の価値が置き去りにされているのである。

 ところで、この芸能鑑賞の本流は、本物の芸能に接しなければつかめないものである。
本物の芸能とは、芸の楽しみ方に、「秘すれば花」のみではなく、その芸に付随する「煮え花」と「お焦げ」の味の美しさから、「鑑賞眼」の出来・不出来の具合をも含めて楽しむ「芸の道楽」というべき付録までついている芸を指すものである。
 こうした「芸の道楽」現象は、池に石を投げ入れた波紋の拡がりのように、芸の世界の奥深い拡がりを観客に自然に自覚させる働きを持っている。ここに芸を鑑賞する喜びの本質がある。
それは、芸に接した者にその芸が心に沁みて、心が豊かになるという現象として現れる。この現象こそ、世阿弥のいう「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」につながるものである。

 島津亜矢さんの芸は、その芸に接するだけで、鑑賞力を養ってくれるのは、「芸の道楽」まで丁寧にセットされた芸になっているからではないかと思われる。
 では、何故そのように丁寧なのかといえば、ここに島津亜矢さんの「信念」である「今日ここまで育ててくれた観客に対する感謝のおもいを、心の底に届く芸を見せることで、恩返ししたい」と、念じるところからきている。
今の時代は、ここまで丁寧に気配りした芸をみせないと、念じたことが実現しないとの思いが基盤になっている。

 加えて、今ひとつ興味深いことがある。
それは何かといえば、今の芸は念じたことに届くのに、充分な芸だとは考えてはいないことである。
念じた芸の高みへは、世阿弥の説く12段の階段を登る必要がある。
島津亜矢さんは、12段の階段のうち、現在はその2段目に上り詰めたあたりとしか考えていないように見受けられる。
言葉を変えれば、目指す芸に対する進捗率は、20%に満たないとしか考えていないのではないか。
以前のそれは40%当たりかと思われていたが、努力による芸の進歩に従って、高みの頂が芸の倍のスピードで隆起し、遠ざかっていくのに気付かされるのである。それでも必死に頂を目指している。ここに芸の奥深さがある。
であれば、80%以上が伸びしろとして残っているともいえる。
では、伸びしろが全部埋められた芸とは、どのようなものなのか。それは全く見当がつかない。
 だが、「信念」が目指す高みの芸とは、「島津亜矢さんは芸の勝ち負けなんか考えて歌っていない。無心に精進を重ねているだけである。だから芸は、あのように人の身体と心に染み渡るのである。」と云われる境地の芸であろうかと思われる。

 このような厳しい見方をする「信念」は、深い人格から来ている。
ということは、これまで174回の投稿で歩いて来たこの道も、随分遠回りであったように思えるが、ここに来て島津亜矢さんの「信念」が、僅かばかり姿を現したのてはないかと思えるところに到達したような気がしている。
 そしてそれは、鑑賞力の鑑賞眼における大事に、目覚めるきっかけになろうとしている。


 鳴かずともからだを焦がす蛍火は 秘めごとのある乙女に似たり



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