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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑨-②-②~「芸を極める道」・その出発点⑦-④外堀は鑑賞眼 能動的観賞(下)



 投稿者  安宅 関平

 芸人の芸に「持ち味」が見られたり、見られなかったりするのは、観客の鑑賞能力に応じてであるが、またそれは、味わい方が多種多様に分散されることでもある。
その多様性によって起きる不満で、芸人を責められない。
芸人にとってはそれが精一杯であることと同時に、観客もそのことを承知していることだからである。
こうした事情の下で、外堀の「花」の美を見い出す喜びは、芸を楽しみたいとする我欲の破片が変化した「向上心」にある。
この向上心によって「花」を見い出す喜びや、それが不発に終わった無念さなどの浮き沈みを楽しむことがその目的である。
これが芸に「持ち味」の存在感をみる拠り所の二つ目とした「観客の観賞力」という鑑賞方法の中味である。

 この鑑賞方法にもう一歩立ち入って見ると、面白いものが見えてくる。
それは、観客個々に具(そな)えられた芸の見方とか能力が相違しているため、100人いれば100個の喜憂が生じることである。
これは個性による現象といえる。
そこで、どれが正しくてどれが誤りということはないのである。美の創造やその鑑賞は、ばらばらなのが美の世界であろう。
それを無理やり幾つかの価値観にまとめようとすると、混乱が起き面白味を欠くのである。
それが「利得」と結びつけば混乱はより激しくなる。
その具体的な事例が年末の「紅白」であろう。あれは混乱の祭典といってよいだろう。2015年の年末のものは、その絶頂期の感を覚えるものであったように思われる。

 ところで世阿弥においては、この「観客の観賞力」に関する方法は、重要視されていない。それは「衆人愛敬の芸」と称して、観客の鑑賞力の有無を問わず、誰にでも分かり、愛される芸を披露することが芸人の最大の努めだと説いているからである。
 しかしながら現在は、世阿弥の意向に沿える芸人はそんなに多くはいないように思える。
ということは、芸に「持ち味」の存在感をみる拠り所を、世阿弥の主張する「芸人の士気」に置くという受動的観賞方法には限界を感じる時代になっており、それに頼れない現実がここにあるといえる。

 その意味では、島津亜矢さんの芸に関心を持つ人は幸せである。能動的鑑賞法を駆使せず、世阿弥の推奨する受動的観賞法で、充実した芸の楽しみ方ができるからである。
しかもこれにより鑑賞力が更に向上するのであるから二重の喜びがある。
こうした鑑賞力の向上をみるに等しい証(あかし)を見る言葉を、折々耳にすることがある。
それは島津亜矢さんの歌を聴いた後では、他の芸人さんの歌は何故か聴きづらいというものである。ここにその鑑賞力が、また一歩成長した跡を見せている証(あかし)をみるのである。
こうした一面を見るだけで、島津亜矢さんのファンの方々における鑑賞レベルの高さが読み取れる。
以前から、若い諸氏に島津亜矢さんの芸を推奨してきたのは、こうした鑑賞力の進歩が体験でき、人格の陶冶につながるという理由からでもある。

 さて、これが「鑑賞眼」にまつわる「花の楽しみ方」である。
受動的観賞法であれ、能動的鑑賞法であれ、「芸の花」を見い出すことで味わうもうひとつ加えたいとした、味わい深い面白味をみる「花」がここにある。
 なかでも能動的鑑賞法での「花の楽しみ方」の大切なところは、能力の個人差がどうのこうのという前に、この喜憂の感情を大切に扱い、それを楽しむことにある。
 これは主として、持ち味の少ない芸人についていえることであるが、実は持ち味の豊富な芸人についても同様なことがいえる場合がある。
それは、鑑賞能力が高まるほど顕著になりやすい。
そこには、芸をさらに上等に楽しみたいとする我欲が働くからである。

 島津亜矢さんの芸は、このようなところにまで楽しみを味わえる幅広い芸になっており、またその幅広さで、歌の味が分からない素人にでも、その良さに気付かせてくれる含みある芸だといってよいだろう。


 土用入り干す梅の香の懐かしき 紫染まる白き母が手




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