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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑨-①-①~「芸を極める道」・その出発点⑦-①外堀は鑑賞眼 受動的鑑賞(上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの芸は「秘すれば花」を本丸にして、その周りに別の「花」をあしらった内堀と外堀を配する三重構造の楽しみ方になっている。
これまで、【「芸を極める道」・その出発点・「内堀」】から始まって前稿の【同・「イヨマンテの夜」】までの23編は、内堀の「花」として「煮え花」と「お焦げ」の美の楽しさについて探ってみたものであった。

 そこでここからは、次の課題である外堀の「花」についてみてみたい。
この「花」は考えようによっては更に、味わい深い面白味をみる「花」になると思われる。
 この外堀の「花」は、芸に対して大衆が持つ「鑑賞眼」にまつわるものである。
具体的には、己の「鑑賞眼」で、芸の中にみる本丸の「秘すれば花」や内堀の「花」の美を、見い出すその力量を問う時に生じる喜怒の感情を楽しもうというものである。
その意味では、芸人の披露する技芸の良し悪しを云々(うんぬん)をするものではなく、芸を鑑賞する側の見方・感じ方の良し悪しに関するものである。
かといって、この喜怒の感情には鑑賞力の幅や深さによる個人差がある。
だが、これも鑑賞力の個人差を云々(うんぬん)するものではない。
それは、個々人の鑑賞力の優劣を度外視して、個々人が心の中に生じた喜怒の感情を、大切にすることから生じる楽しさを、味わうことにあるからである。
この味が外堀の「花」となる。

 この外堀の「花」は、島津亜矢さんの芸を堪能するのに特有の「花」といってよいかと思われる。
 ここにも島津亜矢さんの芸の持つ不思議さがある。
というのも島津亜矢さんの芸には、芸に直接かかわらない間接的な領域にまで、楽しみ方の幅と深さが拡がっているのである。それによって芸の鑑賞が更に楽しくなり、しかもそれが豊かな鑑賞力の向上に結びつく波及効果を生んでいる。

 ところで、「鑑賞眼」で本丸や内堀の「花」の美を見い出す喜びとか、見い出せない悔しさというこの喜怒の生じる原因として欠かせないものに、鑑賞する人の向上心がある。この場合の向上心とは、芸を楽しみたいとする我欲の破片が変化したものであると思われる。
 こうした我欲とは、「はとバス」での都内観光に例えると分かりやすい。
「はとバス」で都内観光する場合は、多くの観光客は魅力ある観光地を事前に知っているから、バスがその地を訪ねてくれると嬉しく楽しいものである。そしてそこが期待した想いの通りであれば満足し、裏切られれば失望する。
これが観光を満喫したいとする我欲である。

 こうしたことは、芸能鑑賞においても同様のことが云える。
観客は芸人の「持ち味」を良く知っている。ここで言う「持ち味」とは芸の「素養」を指すものである。その「持ち味」が芸の魅力となり「花」となるのである。
それ故、「持ち味」が芸の中に生きているか否かを期待している。そこで期待通りの「持ち味」を感じられれば感動し、裏切られれば失望する。
これが芸を鑑賞する場合の我欲である。

 そこで次に、この我欲の楽しみ方である。これが外堀の「花」というものである。
これには二種類ある。
受動的な楽しみ方と、能動的な楽しみ方である。
この二種類は、芸に「持ち味」の存在感をみるための拠り所によって出来上がっている。
その拠り所とは、「芸人の志気」と「観客の観賞力」である。
「芸人の志気」とは、芸に花を添わせる努力と意気込みのことである。それによって発生している花を楽しむのが受動的楽しみ方である。
「観客の観賞力」とは、観客が芸の花をみる壷を心得ていることである。その壷によって「持ち味」を芸の中に探し求め、それを花として楽しむことが、能動的楽しみ方である。

この我欲の楽しみ方の違いも、都内観光のはとバスに例えてみたい。
観光手段には、バスとレンタカーの二種類がある。それは観光めぐりを他力に任すか、自力でするかの違いである。
他力に任すバスに相当するものが「芸人の志気」であり、自力で行うレンタカーに相当するものが「観客の観賞力」である。

 では、はとバスに相当する「芸人の志気」で、「持ち味」を感じる鑑賞とはどのようなもかである。
そこで、はとバスによる観光の良し悪しは、ドライバーとガイドに掛かっている。
それはドライバーの観光案内の工程センスと、ガイドの観光客の意にそったガイド振り次第だからである。
これは、芸で云う「持ち味」の豊さを以って、会場の観客に合った芸の「花」を披露することに似ている。
前者の「持ち味」の豊さが案内の工程センスであり、後者の観客に合った芸が観光客の意にそったガイド振りに該当する。
そのためには、芸人は芸の中に自分の「持ち味」が生きた芸になる工夫と努力をしなければならない。
しかも、その工夫と努力した結果の良否は、観客が判断する仕組みである。
その意味では、「持ち味」が見られたり、見られなかったりするのは、芸人次第次第であり、いわば、観光バスの運転手とガイド次第ということと同意ということになる。つまりこれは、観客の受身による鑑賞の特質である。
 この受動的な楽しみ方は、贅沢三昧の芸能鑑賞なのである。その理由については次稿に移したい。


 農夫らのからだ休める半夏雨(はんげあめ) 
                       田の蛙らも目じり垂れたり




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