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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑳-⑳「イヨマンテの夜」 蕾の美・花の美



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の最終話である。

 ところで芸は「秘すれば花」があるから、観客が魅力を感じて楽しめるのである。
歌唱芸で言えば、それは芸人が持つリズム感、芸に対するセンス、集中力等々の「持ち味」と呼ばれる資質を、芸に馴染ませて、そこに浮かび上がってくる美しい現象を「秘すれば花」というのである。
「秘すれば花」の現象は、「煮え花」や「お焦げ」の美に誘導されて、開花するときが最も美しいように感じられる。
それば、「煮え花」と「お焦げ」を「秘すれば花」の蕾(つぼみ)だと考えると分かりやすいかと思われる。
こうした蕾(つぼみ)にみる美しさの特質は、可憐さにある。
それに対して、「秘すれば花」の美しささの特質は、堂々とした華やかさにある。
 この二種類の美しさの性質は対照的である。
蕾(つぼみ)にみる可憐さの美は、充分に成長していないところからくるところの、保護の手を差し伸べたくなりそうな頼りなさにみる美しさである。いわば、他に助けられる美しさである。
一方、「秘すれば花」にみる美は、中味が充実ししていることから、他に力を貸せるほどの強さの見られる美しさである。
これを簡略にいえば、助けられるときに見る美しさと、助ける時に見る美しさといってよいかもしれない。
 そこで、芸の中で蕾(つぼみ)の美しさを味わうのは、「秘すれば花」を味わおうと身を乗り出す弾(はず)みに、その蕾(つぼみ)にかすかに触れたときである。それは蕾(つぼみ)がその刺激を受けて膨(ふく)らむためである。
その意味では、蕾(つぼみ)の美しさは、「秘すれば花」の前後に位置し、しかもそれは瞬時にみえて瞬時に消えるような美しさであるともいえる。ここに可憐さの趣(おもむき)がある。
こうして現れる蕾(つぼみ)の現象は、水墨画の薄墨で描かれた部分に相当するところである。また、華やかな「秘すれば花」は、濃い墨で描かれた部分である。島津亜矢さんは芸にこの原理を採用しているようである。

それは、六曲一双の「松林図屏風」にみる墨の濃淡によるバランスの巧みさが閑静で奥深い禅の世界として感じられるように、島津亜矢さんの歌唱に潜む奥深い感動は、これと同様な歌唱となっているからである。
ここが、「煮え花」と「お焦げ」によって、「秘すれば花」が引き立っていることを見い出せる楽しさにつながっていくのである。
 これが、島津亜矢さんの「芸の魅力」と「人格」という表裏一体のものを追い求める芸を観客が楽しむとき更に、その芸に別の楽しさとして加わるものの正体である。

 加えて、「煮え花」と「お焦げ」という蕾(つぼみ)の美しさは、解説書や評論家の意見に基づいて感じるよりも、自ら芸の中から見い出すところに価値がある。
何故かといえば、芸の中に「煮え花」と「お焦げ」の美しさを見い出すことが、「秘すれば花」が引き立つという大事を呼ぶことになるからである。
その大事とは、芸人の「持ち味」が「秘すれば花」となって、存在感を増すことにつながっているためである。
芸に、芸人の「持ち味」が、存在感を見せないときは、芸人に「持ち味」という資質があるというだけで、観客はそれを味わえないのである。
ということは「持ち味」が豊富だというだけでは、観客に喜びや楽しさは与えられないこととなる。すると、観客はその芸に失望し落胆する。それが繰返されると、そうした芸から離れてゆくということにつながる。これが現在の演歌界が凋落してきた基になっているのかも知れない。

 ところで、島津亜矢さんの芸に関しては、その危惧を感じないところが凄さである。それは芸の中に何かが存在しているからである。その事例は前稿で採り上げた「イヨマンテの夜」に「煮え花」と「お焦げ」の美をみたように、「おさらば故郷さん」に室生犀星の詩が重なたように、必ず何かの「花」がある。しかもその「花」は、閑静の中にもこころの奥底にずしりと突き刺さる等伯の水墨画に似ている。
島津亜矢さんの芸に飽きが来ないのはこのためである。
 また同じ楽曲の歌唱を繰返して見聞きするのもこのためである。
ただ、繰り返し見聞きする芸の鑑賞は、魅せられた「花」に惹かれてのものではあるが、同時に、毛細血管に運び込まれた血液にみるように、歌唱のどの部分を切り取っても慈愛が噴き出て、新たな魅力をその度に発見することに因(よ)ることである。


 水無月の茅の輪くぐりて祈りたる 敦子夫人の息災延命




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