FC2ブログ

幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-⑦-②~「芸を極める道」・その出発点⑳-⑲「イヨマンテの夜」 「松林図屏風」と「審美眼」 (下)


 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の第19話である。

 さて、島津亜矢さんは「煮え花」と「お焦げ」に見られるように、地味で素朴なところの芸にまで努力して美をみせるから「秘すれば花」がより輝くのである。しかもそれには、素朴な美と華麗な美が均衡のとれた美しさとなって、芸に表現されている。だから芸に自然さが漂い、観客の心に染み入るのである。
 これを絵画に例えれば、長谷川等伯の水墨画「松林図屏風」をみるごときである。墨の濃淡の対照だけで、閑静で奥深い禅や、わびの境地を表現している技法に似ている。
それゆえ、島津亜矢さんは、等伯の絵画技法を歌唱表現に取り入れ、音楽の奥深さを組み立てているように感じられるのである。
それは、歌唱にみる「煮え花」や「お焦げ」は薄墨技法となり、「秘すれば花」は墨の濃い部分で描く墨絵技法となっているのである。この墨の濃淡で歌調を創り、楽曲の詩やメロディーの特質にあわせてそれを使い分けながら歌い上げている。
このように、「煮え花」や「お焦げ」と「秘すれば花」の関係を知ることで、島津亜矢さんの芸の楽しみ方は、さらに興味深いものになってくるといえよう。

 しかし観客がこのような楽しみを味わえるのは、素養と慈愛を豊かに持つ芸人特有のものであることを承知しておく必要がある。
だが、それを承知するには世相に媚(こ)びない審美眼を持つことが大事であるように思われる。
というのは、世相に流されての芸能観賞であると、素養と慈愛の豊かさという芸の命が、偏(かたよ)ってみえたり、時には見えなくなったり、場合によってはそれを否定する立場の局面を迎える事態に陥りやすいのである。それは、まるで浮き草のように、その時々によって変わることである。この辺りが日本人特有の付和雷同的「日和見主義」の弊害かと思われる。これでは芯のある芸は生まれないだろうし、楽しめないだろう。
島津亜矢さんの芸には、世相に媚(こ)びない審美眼を持つことで、芸の楽しみ方が、無限に近いほどあることに気付くかと思われる。
なぜならば、島津亜矢さんの芸は世相に媚(こ)びる芸ではないからである。こうした世相に媚びない芸には、世相に媚びない審美眼で対処することで芸の楽しさが無限に拡がるのである。このあたりが他の芸人には見られない楽しさである。
そこで驚いたのは、古い島津亜矢さんファンの方々の多くは、この種の審美眼を備えていることである。とても愚者などは近寄りがたい、確たる信念を持って鑑賞されている。それは芸にそれだけの価値のあると認めているからだと思われる。だからCDの売れ行きだの、紅白出場などのイベントにはそんなに感心を示すことはない。ただ、芸の向上振りには強い関心を示し、そのための支援は惜しまない傾向にあるように思われる。歌舞伎界にみるあのご贔屓筋に近い存在のようである。

 それもそのはず、こうした芸には、「地上の星の輝き」が見られると断言できるからである。
中島みゆきさんは「地上にある星を誰も覚えていない」と言う。「人は空ばかりみている」とも言う。「名立たるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかりを掴む」と落胆している。そして「地上の星は今、どこにあるのだろう」と訊(たず)ねて、歌っている。
これは、付和雷同的な「日和見主義」の弊害を歌ったものである。
しかし、世相に媚(こ)びない審美眼を持てば、自分の足元に地上の星があることに気付くはずである。裏を返せば、中島みゆきさんは地上の星は足元にあると主張しているのである。
 中島みゆきさんのいう通りである。
いまその足元に、世相に媚びない歌唱芸を持つ歌い手がいることに、多くの人は気付いていない。足元に「地上の星」があると気付くのはいつのことであろうか。気付けば幸せが訪れるだろうに。
日本人の愚かさはここにあると思われる。

 こうした「地上の星」と同様に、これまで島津亜矢さんの芸に、些細なこととしていままで見逃していたことのなかに、これまでみてきたところの、芸の要(かなめ)を多く見い出したことで、愚者の受けた衝撃は大きなものだったのである。


 故郷で犀星の詩(うた)身に沁みる 知る人ぞみな石に彫られて




スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿