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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-⑥-③~「芸を極める道」・その出発点⑳-⑰「イヨマンテの夜」 技芸 (下)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の第17話である。

 さて、前稿の最後に触れているが、「イヨマンテの夜」の歌唱で情熱感と官能性がより強く感じられる方向に向わせる案内板が、歌唱の中にあるとしたのは、とのようなものであろうか。
それは、始めから終りまで歌唱に漂っている技巧による神秘性かと思われる。
 では、神秘性がどうして案内板となれるのかである。
それは、歌唱の深部に終始、神秘性を覚える不思議さを仕組んだ「技」を横たえ、節目節目に創られたサブの「花」で、神秘性を薄める技芸にある。ということは、観客は次々とテンポよくみられる「花」で楽曲を楽しんではいるが、その合間合間に底に横たわる神秘性が見え隠れし、楽曲の原点を甦らせる働きが丁寧に使われて、道路標識のように逸れ道しない案内板になっているのである。
ところが、楽曲の奥に覚えていたはずのその神秘性は、「熱き吐息」の歌唱に遭遇すると突如消え、聴く者の心を晴らしている。いわば、深山幽谷の山道で、突然視界の拡がる山の背に出たようなものである。
このように歌唱は、男女の愛に生じた苦悩を、神秘さという技芸を添えて進めてきた物語を、最後の一瞬でハッピーに締める技巧によって、印象深い楽曲に変身させいてる。神秘性はこの効果に到る案内板になっていたのである。

 話は反れるが、こうした技芸は広沢虎造さんの浪曲に、再三、使われていたのを思い出す。なかでも「石松三十石船」はその典型であろう。テンポ良く副の花を幾つも繰返しみせ、「秘すれば花」を最後に見せることで、聴く者を楽しませてくれる構成になっている。
 このレコードを父親の膝の中で、厭(あ)きるほど聞かされたことが懐かしく思い出される。内容は全く分からず、蓄音機のネジを回すのが面白くて聞いていたのであるが、そのうち広沢虎造さんのテンポのよい節回しは、何度聞かされても厭(あ)きることがなくなった。
 この「石松三十石船」物語は、島津亜矢さんも1995年、歌謡名作劇場の一角に「森の石松」としてリリースしている。これも虎造さんと同様、非常にテンポのよい楽曲で清々しく歌唱している。この発見は当時大変懐かしく嬉しいものであった。
ところで、こうした手法は昔からの芸の手法かと思われることである。

 話を元に戻して、このように歌唱のあちこちにみられる工夫の巧みさが、コラボによるふたつの歌唱を一つの楽曲にまとめようとした跡でもある。
 ところで、それを可能にしたのは、島津亜矢さんの歌唱にみる楽曲に対する慈愛であろう。
この自分の血を分けたものに対するような愛情が、楽曲全体に波及して、相方の歌唱部分までも包み込んでいるから、綺麗にまとまりをもって聴こえ、楽曲を輝かせているのである。
ここのところが後追い歌唱者の責務を果たした跡だといえよう。

 また、その輝きで、楽曲に立体感を感じさせている。
それは聞かせどころの山場を正・副と複数作り、それぞれの山場に向って歌声を、時には強弱させ、時には伸び縮みさせて歌唱を進めていくから、歌唱に山や谷の凹凸を多くみることができる。その凹凸が観客の立体映像につながる基盤になっている。
 ただ、歌唱に凹凸があるからといって、それは必ずしも立体映像につながる訳ではない。立体映像につながるには、更なる工夫が仕込まれれるのである。

それは歌唱するどの楽曲に対してもそうであるが、常に敬愛の念を持っていると感じられることである。この敬愛の念を持ち続けることは大変難しいことである。
敬愛の念とは楽曲を尊敬し、親しみの情を持つことであるが、親しみが強くなると尊敬の念がいつしか薄くなり、尊敬が強すぎると親しめないという事態に陥りやすいからである。こうした事態は芸に対する未経験から来る未熟さや不慣れとか、逆に永い経験からの慣れや惰性から来ることが多い。それを島津亜矢さんは「もっこす」の精神で跳ね除けて維持しているようである。
更に、その敬愛は、楽曲を尊敬し親しむということだけでなく、そこにはやさしさの拡がりと深みが伴われていることである。それによって歌唱にみる凹凸の凹んだ部分をやさしさという「情」が埋め、凸起の部分は原曲をそのまま生かしているから、芸に命が吹き込まれるのである。芸が命を持つということは、芸が生きるということである。これが島津亜矢さんの芸の凄さである。ここに芸術性がある。
そうして吹き込まれた命が活発に動き回るので、観客の脳裏に情景の映像が必然的に映るという仕組みが出来上がるのである。しかもその映像は、凹凸の歌唱につきものの立体的な動きとなって現われ、「情」の活動によってカラーのシネマになるのである。
これが「技芸の巧みさ」の更なる工夫の仕組みである。

 こうした現象は、邪道な芸ばかり観ていると、なかなか気付けないことである。
人心が動くのは、「魅力」と「人格」が伴った芸で、いわば「本物の芸」だけだからである。
「本物の芸」には、「芸の魅力」と「芸人の人格」という性格の違うものが絡むことで生じるトリック現象の効果をみることができると世阿弥は言っている。
世阿弥のいうこのトリック現象の効果は、芸人が険しく厳しい「芸を極める道」へ足を踏み入れて、「魅力」と「人格」の表裏一体のものを芸に追い求めるところから、結果としてこのような「生きた芸」が生まれるのである。
 観客が島津亜矢さんの歌に飽きが来ないのは、芸が生きているからである。
歌を繰返し聞き直すのはその度に、新しい魅力の発見があるからである。
このことは、芸に無限に近いほど、心と技の広がりと深さが秘めてられている証である。
芸術性とはこの秘め事の中に隠されているのである。
ここが、「生きた芸」が「本物の芸」と言われている所以である。
また、歌唱に凹凸があるから楽曲に立体感を感ずるが、凹凸があればすべて立体感を感じるものではないとしたのはこのためである。そこにはそれにふさわしい向上をみた人格が必要だからである。


 天職か香魚焼きたる職人の 夏を告ぐ味この薄にがみ




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