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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-⑥-②~「芸を極める道」・その出発点⑳-⑯「イヨマンテの夜」 技芸 (中)


 
 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の第16話である。

 島津亜矢さんの歌唱で、情景が立体的に脳裏に浮かぶのは、工夫された「やさしさ」が芸に深みを感じさせることに加えて、芸に施す「技芸の巧みさ」にあると思われる。前稿ではその事例に「マイ・ウェイ」と「みだれ髪」を挙げてみた。
 ところで、「マイ・ウェイ」や「みだれ髪」にみられた「やさしさ」と「技芸の巧みさ」は、「イヨマンテの夜」のものと同質であった。
ということは、「やさしさ」と「巧みさ」のこれらを芸に施していたのは、ここ最近のことではなく相当以前からであったことに、この時すこぶる驚き、感心した。

 それはそうとして、島津亜矢さんは「イヨマンテの夜」の楽曲に秘められた困難を、この「やさしさ」と「巧みさ」で実に鮮やかに克服して、楽しませてくれたことはすでに採り上げてきた。
 そこで本稿では、「イヨマンテの夜」でその困難を克服した歌唱の具体的なひとコマを切り取り、そこに芸を楽しむ「壷」がないかを探して見たい。
その壷によって、「技芸の巧みさ」の効用を見い出せれば、芸の深さの意味が実感でき、楽しさが増すからである。


 では、その具体的なひとコマである。
そのひとコマは、島津亜矢さんが歌う第二コーラス後半の「部落(コタン)の掟(おきて)やぶり 熱き吐息を 我に与えよ」の部分を採り上げたい。
ここで注目したいのは、「部落(コタン)の掟やぶり」の歌唱部分に、若干のうなりを入れ、力強い歌唱にして強調したことである。
これにより楽曲の引きずっている情熱感が一気に、強調された。
これは、島津亜矢さんの鋭い「芸感」によってもたらされたものであろう。
その強調によって、その後に続く「熱き吐息を」の歌唱部分が、途端に深く永い眠りから覚めて、大きな働きを始めた。
その働きは、情熱感を歓喜に変えたことである。情熱が歓喜に変わることで、これまで楽曲を支配してきた神秘性が鳴りを潜めている。
また、その後に続く「我に与えよ」の歌唱になると、そこでは燃え尽きた後の残り火を見るように、聴く者を寂滅(せきめつ)の境地へ誘(いざな)おうとしている。その誘(いざな)いが、情熱が変化した喜悦(きえつ)に、優雅さを添える効果をあげている。

 このように、「イヨマンテの夜」の切り取った歌唱のひとコマは、歌詞とメロディーと歌唱の微妙な絡み合いによって、楽曲のストリーの受け止め方を、刻々と変化させる楽しさを見せているのである。


 そうした楽しさに、最も影響を及ぼしていたのが歌唱する芸人の「技芸の巧みさ」であった。
 では、こうした芸人の「技芸の巧みさ」とは、どのようなものであろうかをみてみたい。ここで言う「巧みさ」とは、全身全霊で持てる技術のすべてを使って、目的を達成する様子を指すものである。全身全霊とは、細かいところまで手を抜くことなく、工夫を凝らす努力を惜しまないことの意である。

 そこで、音楽の専門家ではない素人にとって、こうした「巧みさ」を見い出しその良さを感じ取る近道は、テレビ画面での映像構成による刺激である。
「イヨマンテの夜」のテレビ映像では、「熱き吐息を」の歌唱部分が、ズームアップされるカメラワークが働いていた。これが刺激になる。
 今回のこのカメラワークによって働いた刺激は、三点もある。
その第一点は、活き活きとした歓喜の歌唱部分をみせようとするだけではなく、この部分を楽曲全体の引き締めどころとみて、捉(とら)えていることである。
ここを引き締めどころと捉えたのは、歌唱の流れに質の変化があるからであろう。
質の変化とは、相方とふたりで別々にコーラスを披露してきたことで、それぞれの個性から発生する歌唱の違和感がどこかで生じているはずである。ここにコラボが思いのほか楽しめないことの欠点がある。相方にしろ、島津亜矢さんにしろ相当の努力を尽くしても、それぞれがソロで演ずる芸のように楽しめないのはこのためである。
そこで、「熱き吐息を」の部分で味わう歌唱の心地よさが、その違和感をかき消し、芸に一体感を与える働きをしたことである。この一体感の働きで楽曲が引き締まり楽しめることになった。ディレクターはこれを質の変化とみたのである。

 その第二に、このアップは、編曲者が目論んだ歌の聴かせ所であることを示す事のである。
島津亜矢さんは、この場面で見事な歌唱を以って、編曲者の期待通りの表現をしている。
ここに、歌詞とメロディーと歌唱の三者が織り成す微妙な絡み合いを、「技芸の巧みさ」の見せ所として、ズームアップしたものと見られる。

 その第三は、島津亜矢さんが芸の流れを感じ取りながら働かせている「芸感」の鋭い見事さに、ディレクターが注目したことである。
この「芸感」の見事さとは、楽曲の大事なものを想定外なところで表現し、感動に結びつけていることであった。
 では、想定外なところを突いた芸の鋭さとはどのあたりで、どういうものであろうか。
それは、この楽曲の主たる「花」の在り処(か)である。
この在り処(か)に「芸の深さ」を感じるのである。

 というのも、元々、この楽曲の「花」について島津亜矢さんは、「情熱的で官能性を帯びる歌唱」、「神秘性の潜む不思議さの漂う歌唱」、「深みある力強い温(ぬく)もりの歌唱」、「ふくよかで気品のある雰囲気の歌唱」の四つの「秘すれば花」を、当初より楽曲全体の中にしつらえて歌唱したところがある。
 そこで、このしつらえた「秘すれば花」が歌唱の中で生きるには、その四つの「花」を統合した主たる「花」が、どこかにあらねばならないはずである。なぜなら、四つの花がばらばらのままで芸が終われば、「花」の魅力が分散されて、コラボそのものの欠点とも相まって、楽曲が期待した思いを告げる迫力に欠ける芸になりかねないからである。そうであっては、芸は楽曲の主旨からはずれる危惧もある。
それを防ぐためにも統合の「花」が必要なのである。その「花」が何処なのか、ディレクターも観客も、求め探していたのである。
 そこで、素人の目においては、この主たる「花」の在り処(か)は当初、スキャットの歌唱部分にあるように思われた。だが、それは「主」にみせかけた「副」であった。
ならば、「部落(コタン)の掟やぶり」かと考えた。だがこれも「副」として外している。
これらの二つは、芸の技(わざ)として見せる一時の「花」に過ぎないもので、必然的に「副」となり、「主」にはなれないものである。
加えて、後者には、情熱感の強調を目的とした技芸にすきないという理由(わけ)も加わり、主たる「花」の性格に馴染みにくくなっている。
ところが、聞く者の多くは、この後者の歌唱部分が二つもの目的を持っているだけに、主たる「花」として捉えやすいのは、止む得ないだろう。
だが、主たる「花」は別のところに隠されていたのである。ここが「芸感」による「技芸の巧みさ」と云えようし、芸の深さとも云えよう。
 そこで、こうした「芸感」による巧みさを明かすには、カメラワークの働きに頼ることがやはり近道であろう。
ここでのカメラワークの働きは、ストリー内容の転換を感じたことで、探していた主たる「花」の在り処(か)が、この歌唱部分につながっていることに気付かせるところにある。カメラワークにこのような働き方をさせるところに「芸感」の巧みさがある。

 ところでそのカメラワークに関してである。
素人にとって、この「熱き吐息を」に掛かるこの1回のズームアップで、いままで挙げた重要な二つの効果的働きをしていたことである。
 その一つは、冒頭にある「技芸の巧みさ」を見い出す手段としての働きであった。
それはプロデューサーが、「熱き吐息を」の歌唱部分を、活き活きとした歓喜と、楽曲を引き締める働きが、「技芸の巧みさ」として捉えた証(あかし)だと見て取れたことに始まっている。
 またこの部分は、情熱感を歓喜に変え、同時に楽曲を貫いていた神秘性からも解放して、視界の拡がり見せようと試みた編曲者が、目論んだ歌の聴かせ所にもなっている。
こうしたことを踏まえて、島津亜矢さんは「熱き吐息を」の歌唱部分を、何の手も加えることなく自然体で、ストーリー内容の転換点となる歌唱にして、聴かせたのである。
プロデューサーが見い出した「技芸の巧みさ」とは、ここを指しているものと思われる。

 ズームアップの働きの二つ目は、「芸感」の鋭さを感じる手段としての働きであった。ここが、「技芸の巧みさ」の解き明かしどころでもある。
 では、「熱き吐息を」の歌唱に「芸感」の見事さを見い出した理由は何かである。
それは二つあると思われる。
一つは、譜面をなぞった歌唱では、ここを転換点にはできないものと思われることである。
二つは、特別なパフォーマンスを見せることなく、これまでの歌唱の流れに添った自然な所作による歌唱の延長線上で、ストリー内容の転換を感じさせるものにしていることである。プロデューサーが掴んだのは、島津亜矢さんが、芸の流れから感じ取っているこの「芸感」による見事さである。
それもそのはず、これらの二面は、心理描写のあるプロットライン(因果関係を重視した表現法)で、工夫した修辞技法(美しく表現する手法)による表現だからできる「技芸の巧みさ」の効用であろうと思われる。
 しかも、プロットラインでの「技芸の巧みさ」の効用は他にもある。
それは、探し求めていた主たる「花」の在り処(か)が、この歌唱部分に探し当てられることである。
それはこの歌唱部分が、歌唱の流れに添いながら、しつらえていた四つの「秘すれば花」の集積所となって、無意識のうちに主たる「花」となって働いていたのである。ここに島津亜矢さんの「芸感」の凄さを見るのである。凄さとは、無意識という芸の自然さの威力である。
こうしたことも、ストーリーライン(時系列を重視した表現法)の表現では不可能かと思われる。
 更に加えて巧みなのが、掟を破ってまでも成し遂げた愛の成就した喜びを、この「熱き吐息を」に被(かぶ)せることで、地味ながらいつまでも聴く者の心に沁みるシネマの残像効果をみる工夫がここにはある。
この残像効果の地味さが、楽曲をひとつのものにする一助となり、楽曲を引き締めるいぶし銀の働きまでしている。ここには「技芸の巧みさ」の効用によって、地味さを効果的に活用する巧みさがみられる。芸に品格が備わってきているのはこのためである。

 このように、「熱き吐息を」の歌唱部分は、四つの「秘すれば花」をまとめ、脳裏にみる残像効果を生み出し、地味さの巧みな活用で品格を備える等、技芸を駆使した結果が、楽曲のストーリー内容の転換点となっている。テレビのディレクターは、ここに「技芸の巧みさ」の効用を生かす「芸感」の鋭さをみたのである。
ディレクターのお陰で、この楽曲の芸を楽しむ手法の「壷」はここにあると言えそうだ。この「壷」に芸術が潜んでいるのであろう。

 こうした複雑な手法を無理なく自然に用い、しかも観客にそれが気付かれない「秘すれば花」となって楽曲の奥深さを楽しませるところに、「技芸の巧みさ」が光っている。そのことが「秘すれば花」と「煮え花」・「お焦げ」の因果関係まで見ることが出来るのである。
こうして、この「壷」によって「技芸の巧みさ」を見い出し、巧みさが伴っている芸の深さの意味を実感し、それが芸術性につながって、芸の楽しさを増すものになっていると言えよう。


 ところで、これまで、島津亜矢さんの「イヨマンテの夜」の芸で、情景が立体的に脳裏に浮かぶ原因は、二つあるとしてきた。
その一つは、楽曲の高度な理解度であった。それによって、「やさしさ」に工夫がなされていた。それを「編曲の魅力」の見出しで5回に渡る投稿で追ってきた。
その二つ目は「技芸の巧みさ」であった。いま、それを「技芸」という見出しの投稿の中で追っている。
本編を含むこれまでの「技芸」の見出しでの3回の投稿は、「技芸の巧みさ」の具体的内容であった。
その内容に共通していることは、観客はこの巧みさがあることによって、二重にも三重にも盛り上がれる場面が与えられ、同時に情熱感と官能性が、より強く感じられる方向に向えることである。
しかもここで、もうひとつ注目したいのは、その方に向わせる案内板が、歌唱の節目節目に作られているのも見事な「技芸の巧みさ」というものである。
 それについては、次稿に譲りたい。


 病み深き幼き頃に泣きすがる あの母の胸いまだにぬくし





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