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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-⑥-①-②~「芸を極める道」・その出発点⑳-⑮「イヨマンテの夜」 技芸 (上の下)


 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の第15話である。

 前稿に続いて、最近の後追い型コラボレーション歌唱で印象に残っているものの二つ目である。
それは、2016年10月9日、45歳時にNHK放映の「新・BS日本のうた」における中村美津子さんとの、「みだれ髪」のコラボレーション歌唱である。これは布施明さんとみせた「マイ・ウェイ」のコラボから、更に1年経過した時のものである。
 ここで魅せられたのは、自分の芸を相方の芸に添えようと努めたことである。
 では、この「添える」とはどのようなことであろうか。
このコラボは、演歌を好む熟年層においては相方の壮絶感をみる熱唱に好感を持たれたことかと思われる。しかしそれは、年若い世代の層にとって、演歌特有の執念が滲んだ濃く(コク)ある歌唱に映るものであったことだろう。また、島津亜矢さんもややそれに近い歌唱だったように思えた。ただ、島津亜矢さんには、内面に相当の違いが感じられた。その違いは「添える」という思惑の心得からきていた。
「添える」とは、その濃く(コク)のある部分を好まない若い世代やその他の観客の、演歌を楽しむ障害となるのを薄め、むしろ、相方のその熱唱が感動を伴って生かされるように努めることであった。
これによりコラボによる楽曲が生かされると踏んだものと思われる。しかしその思惑も、元来、この楽曲そのものが執念の滲んだ濃く(コク)が売り物であるだけに、困難を極めることになっていた。今回はそれに対する挑戦であった。

 ところで、自分の歌唱を相方の歌唱に「添える」という芸は、自分を殺して他を生かす芸能手法である。
世阿弥はこの手法は、芸を知り尽くした芸人でしか使うことはできないとし、使ってはならないと断言している。芸を知り尽くしていない芸人がこの手法を使うと、芸に勢いが欠け、芸が壊れ死んでしまうとまでに言っている。
しかし、島津亜矢さんは若干45歳で、この手法を手掛けたのではないかと思われる。これが冒険だったのかどうかは分からない。ただ、責任感と物事を遣(や)り通す意志の強い性格からして、思い切って行動に出たのであろうと推察している。そこには自信のない行動は採らないとする性格があると思われるから、その推察は的外れにはならないだろう。
 こうした手法をとったのは、過去の経験からして後追いの歌唱者には、楽曲に魅力を持たして楽しませる責務があることを承知しているからであろう。
しかしながらその困難性は、相方の協力や努力に依存することなく、むしろ相方が自由に能力を発揮した上で、自分の後追い芸が、芸全体をまとめることを、要求していることである。
世阿弥は芸が壊れると言っているのは、この無理難題をこなすには相当の能力と実力が必要だからである。
 ところで、島津亜矢さんのこのたびの芸は、責務を全うするためにこの手法を選んだのか、それとも、あの鋭い芸感から自然に出たものであろうか。そのいずれかは解からない。
しかも芸を知り尽くしているか否かも分からない。
だが結果として、その責務はみごとに果たされている。
加えて、年長者の相方にはそうした心得が失礼に当たらないように、節目節目に礼を尽くす一方で、観客には楽曲全体を、魅力を以って楽しめるように、細心の気配りを施している様子がありありとみられた。それは歌唱振りの調和の良さもさることながら、それ以上に気配りを施している様子や仕草の美しさには胸の詰まるところがあった。

 こうした気配り目配りまても含めて、楽曲全体を、魅力を以って楽しんでもらえるように組み立てる責務を果たそうとしたこの心得に「巧みの技」をみたのである。
では、その気配りが外見に出た典型事例をひとつ挙げてみる。
それは歌唱が最終章の「ひとりぽっちに しないでおくれ」の場面であった。相方が控えていた後方の舞台中央の壇上から降りて、前方で歌唱中の島津亜矢さんの傍に添い並ぶ場面が見られた。その時である。島津亜矢さんは一呼吸おいて、歌いながらさり気なく相方の添ったその間隔を、より適切なものに一歩、半歩と広げていくあたりの行動である。そのさりげなさに、気配りと自然さと美的センスがあふれていた。これには驚いた。
これは舞台を見る観客の目線からの美を意識したものであろう。それは芸を披露しながらも、舞台における物事の美的なバランス感覚を常に意識している証である。美を極めようとする意識の一端が、こうした場面にまで出てきているのであろう。
この気配りによって、島津亜矢さんもさることながら、相方の存在が自然にキリリと引き締まって感じられ、大変舞台が大きくなって、美しく見えたのである。
 しかしながらそこには、そうした苦労と努力の痛々しさはまったく感じられない。自然体の芸風が、透明で響きのよい歌唱を生かしているだけであった。それは添える芸として、無理な歌唱部分が生じないよう細心の注意を払いながらの歌唱であるにも係わらず、そこには自然さが流れているから、芸人の「巧みの技」は観客には気付かれることなく、芸を楽しめる工夫がなされている。そこに芸に対する心得のたくましささえ感じるものがあった。

 だが、色々な配慮を以って添える芸に努めてはみたものの、最終的には芸のまとめ具合が功を奏してか、島津亜矢さんの芸の魅力が際立って感じられるものになっていた。最もこうした印象は、コラボの後追い芸を披露する芸人の、芸が功を奏した後に残る特質としての利点かも知れない。
 歌唱の後に、「緊張して手が震えました」と、真情を吐露していたかのようであるが、それは、歌を上手く歌おうとした心情から生じたと云うよりも相方の先行した歌唱に、自分の芸をうまく添えられるか否かの、心労からきたものと思われる。
 こうしたことの結果、芸は相方の歌唱の長所をもって、人を恋う情感の美しさを際立たせ、楽曲の持つしつこさをわずかながら薄めて、若干清涼感が伴うものにまとめたことで、楽曲の持つ暗さを超えて明日への展望を感じる重量感の加えられたものとなって観客を楽しませてくれたようである。
 このような技芸には目を見張るものがあった。
そこには、こうした努力によって年若い世代や演歌を好まない観客にも演歌楽曲を楽しめるように近づけたいとしたものがあったのであろう。ここに世阿弥の忠告している「添える」技芸の冒険を試みた行動の意図が汲み取れる。

 このように、苦労と努力による工夫を以って、相方やその舞台、楽曲に応じた「花」の発揮により、「マイ・ウェイ」も「みだれ髪」も、何の違和感も覚えず感動をもって楽しめている。
これは「イヨマンテの夜」のコラボで、「技芸の巧みさ」以ってコラボの欠点を軽減し、楽曲の三重苦の克服を図ったことと同質の、苦労と努力を注いだ結果である。
島津亜矢さんの芸は、上記に挙げた三曲においても見られるように、それぞれ多種多様楽しみ方ができる懐の深さがあるところに、芸に対する魅力は尽きないのである。


 甘き蜜蝶と競って吸っていた 稚児が口元すいかずらの花




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