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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-④-②~「芸を極める道」・その出発点⑳-⑦「イヨマンテの夜」 美の立体化 (中)


 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の第7話である。

 前稿で、具体的に歌唱の修辞技法と非修辞技法で、受ける印象の違いを採り上げてみた。そこでは確かに、歌詞やメロディーがガラリと変わっている訳ではなかった。にもかかわらず印象がこんなにも違うのは、歌唱の所為である。
 変っていたのは歌唱である。
それは説明が多くなるような歌唱になっていたことである。
ということは、その歌唱には歌詞やメロディーにみられない情報が、多く詰め込まれているということである。
それは、宮沢賢治の著書「銀河鉄道の夜」にあるように、ひとつの行為が利己主義と利他主義の両面に捉えられる如く、大変に幅の広く捉えられる視界360度の情報を備えているからである。
それはまるで、いろいろな技芸という何両もの車両に、こうしたたくさんの情報を詰め込み、聞く者の心のブラットホームに入り込んでくるようであり、入り込んだブラットホームでは、車両が着くと聴く者に必要な情報や、欲している情報のすべてを降ろして去るという具合に思える。
ところで、このように情報量の多さは無限に近いものであるから、聴く者が貪欲な要求を持っておれば、その要求のすべてを満たすまで情報を降ろしてくれる。
 その典型的事例が、前稿に記(しる)したところの歌唱を聴く者が脳裏に展開した映像である。
それは、芸が自然体で、歌声の強弱、高低、伸び縮みの主要な4技芸の変化する丁寧さ等から得られたところの情報から映し出されたものである。更に、この上に「硬・軟」に関する情報を求めると、映像はよりきめ細かくなり、前記の三倍のスケールに展開されて映るものと想われる。
 また、歌唱における歌詞やメロディーにみられない情報量の多さをみる別の事例では、そこに面白い現象のあることを加えてみたい。
それは歌唱の受止め方は同一であっても、感じ方は十人十色である。その十人十色の感性が、何度か歌唱を聞き直すそのたびに、新鮮さを感じ厭(あ)きないことである。それは新しいものを発見したり、新たな魅力を感じたりするからである。それだけでは足りずに、また聞きたくなるという欲望まで沸いたりする。これはそのたびに新しい情報を発見するからであり、次の発見に期待を抱くからである。

 これは、出来事を順序どおり並べた単なる前後関係を歌っているストーリーラインと違い、小説態の心理描写のあるプロットライン(因果関係を重視した表現法)を、工夫した修辞技法(美しく表現する手法)で表現しているところから来ているのである。
 では、プロットラインだと何故、情報量が多いのかである。
そこには、いろいろな「技(わざ)」が駆使され、声量の多さだけという単純な魅力で、終わらせてはいないところにある。
いろいろな「技(わざ)」とは、音程の安定感、声の強弱、伸び縮み、高音にみる清純さ、そして誰もが感じる芸の硬軟、等々の技芸である。更には、楽曲へ込められる慈愛がある。
これらによって、歌詞のストーリー(物語の筋の運び)で起きる出来事の、前後における因果関係までもが、メロディーを巻き込んで、歌唱の中に取り込まれるという、高度な表現に出来上がっているのである。
ということは、それは、歌唱が心理描写のある小説態の表現である修辞技法だということの証しでもある。
 しかし、その修辞技法が成り立つには、観客が心の中にそれだけのことを感じるスペース(余白)が必要である。スペース(余白)とは芸能の鑑賞時に持つ心の「余裕」のことである。
観客がこの「余裕」を心に取り込めると、ぎざぎざした心の襞(ひだ)の間に良きバイブス(気分)が附着し、それがアメーバーのように成長し、芸へのロイヤルティー(忠誠)が向上する。そのロイヤルティー(忠誠)が「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」につながっていく。
 島津亜矢さんの歌唱が、何故かしら気持ちよく、ゆったりと聴けるのは、こうした技芸を駆使した修辞技法の歌唱によって聴く者の心に、「余裕」が生まれているからである。
ここが島津亜矢さんの芸の命になっている。この命を育てるのに過去二十余年間、努力と苦労を重ねてきたのである。


つくばいの水面(みなも)に満つる十三夜
              したたる露にゆらいで笑う




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