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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑧-②~「芸を極める道」・その出発点⑳-④「イヨマンテの夜」 秘すれば花



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの三重構造の芸で、内堀の花に気付いた歌唱の第4話である。

 島津亜矢さんの「イヨマンテの夜」のコラボの芸に、本丸、内堀、外堀の三重構造を見出し、内堀の花には、清らかさ、慈愛、余韻という三種の美があることに気付いたことを、これまでに述べてきた。
こうした美の味の発見に至った元々のきっかけは、島津亜矢さんの歌によって泥流が清流に変わるという不思議さを訪ねる旅の始まりにある。
そして、いままでこの旅で見てきたことは、まず、幼少の頃から豊富な質量を伴っていた歌唱力の輝きである。その輝きは、「魅力」と「人格」を融合する資質の豊富さから発せられていた。
次に、この資質の豊かさは、植木町の高台でみた熊本の自然に人間が融合して出来た風土と同質のものであることだった。
これらのことから、島津亜矢さんの芸の輝きに魅せられる原因は、「魅力」と「人格」を融合した歌唱力にあり、その歌唱力は熊本の自然と人情によって出来上がっているということの発見だったと言える。

 「イヨマンテの夜」のコラボレーションにも、そのことが如何なく発揮されている。
それは、この魅せる原点が「煮え花」や「お焦げ」となって芸に現れ、「秘すれば花」を引き立てていることにある。
そのようにみると、歌唱での「秘すれば花」が、美しく、味わい深いものに感じられる結果に納得できるのである。
 そしてこの関係こそが、従来から探していた島津亜矢さんの芸の美に見る、「煮え花」や「お焦げ」と「秘すれば花」との因果の関係を探れる手立てになりそうである。この手立ての発見は、芸の見方を根っ子から変えるものになりそうである。

 そこでここからは、島津亜矢さんが押さえていると思われる「芸の壷」から現れるところの、芸の面白さとはとのようなものかを、具体的に採り上げてみたい。それによって、「内堀」の美しさの役割を見られ、それが工夫によって出来ているのではないかということも分かるかも知れない。そして、その工夫がどのようなものかが分かれば、「煮え花」や「お焦げ」と「秘すれば花」との因果の関係も、その工夫から来ていることに結びつき、島津亜矢さんの芸に対する理解が、より深まってその見方が変わるかも知れない。

 では先ず、この「イヨマンテの夜」の歌唱の特徴から見てみたい。
それは、聴く者に四つの特色を感じさせるものになっいてると思われる。
その一つは、楽曲が情熱的で官能性を帯びて感じられることである。
二つは、神秘性の潜む不思議さを、楽曲全体に張り詰めた重苦しさとして漂わせていることである。
その三つは、楽曲に漂っている神秘な不思議さに、深みのある力強い歌唱が温(ぬく)もりを与えていることである。
これは特異なことである。というのは、この温(ぬく)もりが「硬」の中の「軟」と言えるからである。その効果は、不気味で不思議さを持つ不安に力強さで対峙し、その不安を中和している。ここで大事なのはこの中和の働きかと思われる。これによって歌唱に厚みが加えられている。それは声量だけで押し通す歌唱では、楽曲の良さは充分に味わえないことを示している。
最後の四つ目は、情熱とか官能性とか言う言葉の持つ特質に、凍てつくような硬い感性を覚えるが、それをふくよかで気品のある雰囲気に変えて、楽しく味わえるようにしていることである。ここにも「硬」の中の「軟」の働きがみられる。
 島津亜矢さんは、歌唱にこの四つの特色持たせ、それを歌唱の中で「秘すれば花」としている。
 このように感じるのは、島津亜矢さんが歌唱に工夫している影響からきている。もし、別の歌い手さんであれば、四つの特色は別のものに変わっていただろうと思われる。
ということは、この「秘すれば花」には島津亜矢さんの芸態の特質が出て、楽曲の大部分をリードいるからである。

 ところで、コラボの歌唱でどうして、島津亜矢さんの芸態の特質がそんなに強く関係してくるのであろうか。それについては芸態の特質をみる必要がある。
 島津亜矢さんの芸態の特質は、自然体で控えめな印象を与えながら、聴く者をどんどん何処かへ引っ張っていく不思議な力を伴なっているところがある。しかもそれは、何処へ行くかは分からないながらも、曳かれるままについていっても何の不安も感じない。それどころか、ついていくこと自体が楽しさを呼び起こしている気配すらある。
 島津亜矢さんのどのような楽曲の歌唱においても、歌唱にみられる「秘すれば花」は、すべてこの芸態の特質に襲われ染められている。これが島津亜矢さんの芸態の特質なのである。
「イヨマンテの夜」の歌唱における「秘すれば花」も、例外ではなかったのである。

 ところで、この芸態の特質の魔力は、どこから来るものであろうか。
 それは観客が芸に覚える安堵感から来るものであると思われる。
この、芸に覚える安堵感こそが、世阿弥のいう「秘すれば花」の目的であり、効果である。
この安堵感を覚える「秘すれば花」は、芸人の楽曲に対する慈愛の滲(にじ)む表現によって、感じられるものである。
その慈愛は、身体の毛細血管に運び込まれた血液をみるようなもので、芸の些細な所にまで行き渡っていて、何処を切り取っても噴き出すのである。
安堵感を与える「秘すれば花」とは、そのようなものである。これが「本物の芸」であり、世阿弥のいう「生きた芸」なのである。
世阿弥は六百年前、当時の芸人にこれを持てと厳しく指導している。芸の出発点はここにあると説いている。

 ところで芸人の慈愛の滲(にじ)む愛情の表現に対して、それを受ける観客の反応はどうであろうか。
それは観客の感受性の濃淡にも関係している。
ただ、大概(たいがい)の観客は、芸人の不自然な身体の動きやその激しさとか、あるいはジェスチャーとか、また不必要・不自然な顔の表情などから受けるインパクトで、心に愛の豊かさが富むことはないだろう。
それはもの静かな中にあっても、芸が自然体で、歌声の強弱、高低、伸び縮みの変化する丁寧さから受ける刺激よって、感動が呼び起こされ、その高まりで慈愛の豊かさを感じ取り、心が洗われるのである。
こうしたところに白雪のように愛が積もり富むことで、心が豊かになると思われる。
この現象は、歌唱の如何なる部分からでも、潜(ひそ)んでいる慈愛が噴き出て、観客の心を動かすのである。だから、歌の一節を聴いただけで心が動くのは、そのためである。
観客の多くはこれに魅せられる。そして、そこに生まれた感動は、人心を大変ハッピーな気分にしてくれる。
その気分に世阿弥のいう「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」という効果が生じてくるのである。

 島津亜矢さんの芸に、このような「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」をみるのは、それを見るための工夫が施されているからである。その工夫が、「煮え花」や「お焦げ」と「秘すれば花」を作り出す「芸の壺」を、押さえるような働きをしている。
 また、「イヨマンテの夜」のコラボの芸に、本丸、内堀、外堀の三重構造を見出し、内堀には清らかさ、慈愛、余韻という三種の美があることに気付いたことも、また、芸の輝きに魅せられる原点の歌唱力が熊本の自然と人情でできているとの発見も、さらに、聴く者をどんどん何処かへ引っ張っていく不思議な力を伴なっていることも、これらはすべて慈愛を伴った自然体の芸によるものである。
そして、この自然体の芸は、熊本の自然と風土を映したものなのである。そこで、工夫はこの自然体を維持するためのものであるとも言えるかも知れない。それによって、「寿福増長」も維持できることにつながっている。
すると、「芸の壺」と「芸の自然体」というこの二点に共通する工夫を見ることだけでも、島津亜矢さんの芸をみる目に、少し変化の兆しをみるかもしれない。
 そこで次稿では、そうした施される工夫について見てみたい。


 朝方の庭にたなびく霞みて 夕になびけば朧(おぼろ)にかわる





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