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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑥-③-⑤~「芸を極める道」・その出発点⑩-⑦「本物の芸」・「生きた芸」(下の下)



 投稿者  安宅 関平

 さて、島津亜矢さんの歌唱から「温かさと安寧」を覚える不思議さを解こうとすると「本物の芸」に突き当たる。
そこで、「本物の芸」の最近の分かりやすい事例として、採り上げたのが「恋人よ」である。
しかし何故かその印象は、オリジナル歌手で受けていたものと相当違って感じらることに気付く。
 始めて「恋人よ」の楽曲を耳にしたのは、1980年(昭和55年)頃である。もうそれは37年も前のことになる。ということは、この間、楽曲の印象は変わることはなかったことになる。それは楽曲の印象を変えるような歌唱に出会わなかったことを意味している。
ところが今般、それに出会ったのである。
そこで、それはどうして印象が変わったのかと考えてみる。
すると、歌唱芸から受ける刺激の違いによって、感動する心の働きが変化したのではないか、との思いに至る。

 では、出会った歌唱のそれは従来のものと、どこに刺激の違いがあるのであろうか。
その違いは歌唱法にあると思われる。
そこで、歌唱法から受ける刺激の、印象の違いを挙げてみた。
オリジナル歌手の「恋人よ」では、歌唱にソフト感を感じる。島津亜矢さんのカバーではハード感を覚える。また、「川の流れのように」の楽曲が生涯最後のリリースとなった昭和を代表する女性歌手のカバーでは、オリジナル歌手よりも更にソフトに感じられる。
そこでこの三人の歌い手の歌唱にみる違いは、島津亜矢さんと昭和を代表する女性歌手とは、オリジナル歌手を間において、ソフトとハードの両極に位置し受ける印象が対照的に感じられる。これによって三者三様の芸にみる味の違いが楽しめる。
その楽しみはソフト感とハード感という質の違いからきている。今回の楽曲の印象を変えた原因も、これまで変わらなかった原因もこの質の違いにある。
というのも、印象が変わらなかったのは、これまでに出会った幾つかのカバー曲のすべては大なり小なりソフト感覚派に属するものであったからである。ところが、このたびのハード感覚派の歌唱によって、この楽曲に新境地を感じさせたのである。
このように歌唱法の違いによって、観客の感受性は変わってくる。しかし、感受性は変わっても三者の歌心は変わってはいない。

 そこで、歌心は変わらないのに、こうした現象は何故起きるのであろうか。それは、歌い手それぞれの歌唱に、工夫が凝らされてあるからであろう。それが個性と呼ばれているものかも知れない。
 では、島津亜矢さんの歌唱の工夫は、どのようなものであろうか。
島津亜矢さんの歌唱は、ハード感を覚えながらもソフトタッチに聴こえるところが面白く興味深いところである。それは「硬」の中に「軟」をみるという芸になっているためである。これは芸の匠の技である。
と云うのも多くの芸人の歌唱は、ソフト感によってソフトタッチを感じるものである。それは「軟」によって「軟」をみるという芸である。この手法は今日、芸の一般的常道となっているテクニックによる上手さという技によっている。
ここが、匠の技の工夫とテクニックによる技の違いの特徴である。

 そこで、「硬」の中に「軟」をみるこの匠の技の工夫をみてみる。
 これは、ワインをチョコレートで包(くる)んだお菓子に似ている。
固いチョコレートを口に入れると、チョコが溶け出しチョコ特有の舌触りのよい味と香りが味わえる。そして溶け出しチョコからワインが漏れ、ワインの柔かな味と香りが口いっぱいに拡がる。その後、一足(ひとあし)遅れてチョコとワインがブレンドされた格別の大人のうま味が味わえる。
これがこのお菓子の工夫である三種の美味さを味わえる醍醐味である。

 「硬」の中に「軟」をみる歌唱も、このお菓子と同様の醍醐味がある。
 では、ここでその工夫と醍醐味を味わってみたい。
 その第一の事例は、歌唱の工夫にある。
「恋人よ」の歌唱には幅と深さと拡がりを持たせ、楽曲を聴く者の心に馴染めるようにしていることから、歌唱が力強い迫力で、ぐいぐい人心に迫ってくる。力強い迫力とは、聴く者に勇気を奮い起こさせる強さであり、こころが清らかになる清々しさをいうものである。
そして、その迫り方がやさしさを持っていて巧みである。
それは、やさしさの素である慈愛という「軟さ」を、ガラス細工に似た透明な歌声の「硬さ」で包み込み、その「硬さ」で人心を刺激し心の奥深く入り込む。入り込むと「硬さ」の殻が解(ほぐ)れ、慈愛という「軟さ」が湧き出る。その慈愛の優しさに浸っていると、じわりと心に何故か豊かさを覚える。
じわりと心に豊かさを覚えるこのひと足遅れの作用の働きが、歌唱にいつまでもふくよかで魅力をもった印象を、その心に植えつけるのである。植えつけられた印象は、豊かになった心の泉の中で日々成長し、林になり更に森になる。それは人間性が豊かになってゆくことを意味しているのである。
ここが島津亜矢さんの工夫した歌唱とその効果である。
この歌唱とその効果こそが、「硬」の中に「軟」をみる醍醐味の典型である。

 第二の事例は慈愛の働きの楽しみ方にある。
島津亜矢さんにおける歌唱に備わった慈愛は、熊本・植木町の風土によったものである。
その慈愛は「恋人よ」の楽曲の歌唱にも及んでいる。
この場合、第一の事例で示したように、慈愛を歌唱の硬さでガードしながら美しい愛の宝がその中にあることを、深みのある歌唱で披露する。愛の宝とは、熊本・植木町の自然と風土の美から生まれた慈愛である。
この深みのある歌唱と、従来よりの幅と拡がりのある歌唱の二種類を駆使してして楽曲を楽しませる。すると、観客はそこに釘付けされる。その釘付けに馴染んでくると、自然に柔らかな慈愛が硬さのガードから取り外され振り撒かれる。すると、人間であれば誰しもそれに感動する。
島津亜矢さんの歌唱には、このような作用の働きを利用して、慈愛を観客に届ける工夫がされている。
ここに「硬」「軟」の調和による美しい愛を楽しむことになる。これが醍醐味である。

 第三の事例は、一曲の楽曲で「硬」・「軟」を同時に味わえる芸は、オリジナル歌手にも、昭和を代表する歌手にもない。
これは島津亜矢さん特有のものと思えることである。この特有の現象が、感受性を刺激し「恋人よ」の楽曲に印象の変化を促したのである。
 では、この特有の現象が何故、感受性を刺激したかである。
それは、「美声」とか「上手さ」だけに頼らないところにある。工夫はここにもある。
その工夫とは、永年の努力と経験によって歌唱に幅と深さと拡がりを持たせ、楽曲を聴く者の心に馴染めるような歌唱にしていることである。馴染む源(みなもと)は、芸の内に潜んだ「愛」の仕業にある。
「愛」は柔らかいことから、いかなる人心にも入り込みやすい。この入り込んだ「愛」の仕業で聞くものの心に感動が生まれる。この感動の冷めやらぬ役割を担うのがブレンドの効果である。ブレンドの効果は、ひと足遅れの感動には抜群の効果がある。
この作用の働くことが島津亜矢さんが見せる芸の、最大の特徴である。
 芸の中でこの特徴に出会ったとき、思い出すのが楽曲「決闘高田の馬場」にみるあの一場面である。
それは、中山安兵衛が急ぎ駆け出す高田の馬場へ、ひと足遅れで後追いするのり屋の婆さんの姿である。
「ヨイショ コラショ 安さん、安さん、喧嘩はよしなとかけてゆく」の、一呼吸ずらして駆け行くあの場面の様である。これが芸に厚みをもたらしている。ここにブレンド効果を感じるのである。

 島津亜矢さんのすべての芸に、こうした三段階の手法で「歌唱」「慈愛」「硬・軟」の工夫が施されているのは驚きである。
しかし、こうした努力を積み重ねることが、熊本・植木町の風土と自然から受けた美しい人間の姿である。この努力が薄れると芸の魅力も薄れるかも知れない。
 世阿弥は「芸は人、人は自然、自然は芸」だと言っているのは、この姿を指しているようである。


 雪解けの気配のなかの福寿草 なして芽生えた南天の脇




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