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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑥-③-③~「芸を極める道」・その出発点⑩-⑤「本物の芸」・「生きた芸」(下の上)

 
 
 投稿者  安宅 関平

 「本物の芸」・「生きた芸」の分かりやすい最近の事例がある。
それは先日(2017年1月29日)の、NHKの「新BS日本のうた」で放映された「恋人よ」と云う島津亜矢さんの歌唱である。
この芸が「本物の芸」と思われる要点をまとめてみると、四点ばかりあるように思われる。
 その第一は、舞台上で見られる落ち着きのある態度に「美」を感じることである。何故、美しいかはよく分からないが、たぶん、外見に見る落ち着きのその中に、内面の清らかさが滲み出ている感をみることにあるのかも知れない。
その意味では、この舞台で外見から内面がよく見える場面があった。
それは、舞台の中央に立って前奏の流れが終わろうとする10秒ほど前に現れた一瞬の仕草である。
この仕草は精神を集中しようとすることから来ているようである。その表情には敬意をもって楽曲に対峙しようとする覚悟がみられる。ここが美しい。
この仕草や表情の美しさは芸を敬愛している証かと思われる。
しかも、この集中力の美が芸のすべての美を編み出す前触れになっている。
この美こそ、「魅力」と「人格」がほど良く溶け合って出てくる内面の清らかな美しさだろう。

 要点の第二は、歌唱が始まり、曲が進行するに従って歌が盛り上がってくるように聴こえることである。
しかしそれは、聴く者の心が盛り上がっていることを錯覚して感じる現象であろう。聴く者は、心が盛り上がっていることに初めは気付けない。すべてが終わってから気付くのである。
これはなんと傲慢(ごうまん)な鑑賞であろうか。しかし、島津亜矢さんの歌唱においては、そうした聴き方での鑑賞でも許されるのである。「福は内、鬼も内」である。
何故かといえば、どのような鑑賞であっても歌唱の丁寧さと楽曲に入れ込んだ慈愛は、人心を次第しだいに歌の世界へ誘い込むからである。芸が終わってみると聴き手はとっぷりと歌の世界に浸かっている。傲慢(ごうまん)な聴き方でもそれは同じなのである。
それは歌唱芸に備わっている我慢と許容の範囲が広いためである。
この現象こそ、芸人のもつ典型的な「人格」のなす技である。

 これを人々は平たく言って「歌が上手い」と表現するのかもしれない。
上手いと感じるのはそこに愛があるからである。
その愛とは楽曲に対する入れ込んだ慈愛である。
その慈愛を、聴く者が共有できたときに、「歌が上手い」という現象が起きるのであろう。
こうしたところが、世阿弥の言う「生きた芸」を味わう醍醐味である。
 しかも、歌い終わるとその余韻を残すかのように笑顔もなく、静かで丁寧な一礼を残して立ち去る。
こうして姿を消すまで、いや、姿を消した後までも楽曲の世界が残るような舞台上の所作や態度には、心憎いばかりの魅力が編み出されている。

 要点の第三は、楽曲の心を伝えたいとする熱意である。
この歌唱には、歌を上手く歌おうとするところから来るものではない何か不思議な雰囲気を感じる。
というのは、どこを探しても上手く歌おうとするためのテクニックの部分が見当たらないのである。それはテクニックで歌っていないからである。むしろ、テクニックを隠しているのである。
ということは、それは上手く歌おうとしてはいない証しである。
 しかし、上手く歌っている。何故だろうか。
 それは「地」で歌っているからではないかと思われる。この「地」が不思議な雰囲気を感じさせるようである。
「地」で歌うとは、心のあるがままに歌うことである。
心のあるがままとは、「楽曲の心」を聴く者に伝えたいという信念である。
「楽曲の心」を伝えたいとする信念の必死な心が、島津亜矢さんの持つ能力のすべてを奮い立たせているためであるろう。
こうした雰囲気が歌を聴く者の共感を呼び、感動を起こさせるのである。
ここが即ち、芸人としての誠実さにみる「人格」の仕業かと思う。

 要点の第四は、歌心の凄さである。
その凄さの特質は二点ある。
一点目は楽曲に目論(もくろ)まれている心をどうして聴き手に伝えようとしているかである。
二点目は目論(もくろ)まれている心のその本質は何であるかを知らしめようとしていることである。
こうしたことを、冒頭のナレーションは「この歌をどう自分のものにするべきか」と言い、「悩んで、いまその成果を問う」と、意味深長な言葉で表現している。このような表現にふさわしい芸を、島津亜矢さんは見せてくれたのである。 
 この二点の特質については、次稿でより深く掘り下げてみたい。


 庭木にも冷気の忍ぶあさ明けに あおじのさえずり鋭く凍(し)みる






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