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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑥-③-①~「芸を極める道」・その出発点⑩-③「本物の芸」・「生きた芸」(上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの歌を聴いて、そこに「温かさと安寧」を覚える楽しい不思議さがあるのに気付く。
この不思議さはどこから来るものかと思う。
それは芸に「人格」と「魅力」が絡(から)むことで生まれてくるものであった。しかもそれは、芸人が芸に対する自覚が深まっていく過程の現象でもある。また、不思議と思われるこの現象の推移を時間をかけて見ることは、芸人が芸を極めて行く過程の様子を見詰めることでもある。

 ところで、この極めて行く過程をみるのは、大変興味深いことである。
というのは、物事を極めるとは人間の大切な課題だからである。
そこで極める過程を見ることは、その課題に対して大事なことを教わることに似ていると云えよう。
 だが、極めることは芸能に限ったことではない。文学、化学などの学問の研究分野も同様であり、また、仕事や日常生活においても然りである。身近では仕事においてセールスのエキスパートだとか、生活上では家計のやり繰り上手などがある。例えを上げれば切が無い。
だが、そのいずれの場合でも、裏には必ず人格の向上が見られるのである。物事を極めるためには、この人格の向上が無ければ極められないからである。
このことを世間では「人間が出来ている人」と表現している。それは平たく言えば、物事に対してどこまで我慢ができるか、許せるかの深浅の差からきている。人間の出来た人は我慢と許容の範囲が広いのである。
島津亜矢さんの不思議さの生じる歌は、そこに気付かせてくれる貴重な芸なのである。

 ところで、芸に「温かさと安寧」が生まれるのは、芸の中で「魅力」と「人格」が融合することから生じる現象であった。
だが、それはすこぶる困難を伴っている。
「人格」は、人間性の骨格となる我慢と許容の広さの範囲示すものであり、「魅力」は、技芸が常に新鮮で人心を引き付けて離さないことをいうものであるから、この「許すこと」と「引き付けること」の相反するものを溶け合わすのは簡単ではない。
稽古を重ねるだけで叶えられる単純なものでもない。
実のところ、稽古ではテクニックは覚えられても、芸に命を吹き込めないのである。
ところが、「温かさと安寧」は、芸に命があるから感じられるものである。
と言うことは、「魅力」と「人格」の融合は簡単ではないが、出来ないことではないのである。しかし、困難が伴うのである。
では、どうすればこの二つを融合して芸に命を吹き込めるかである。
それは、芸を敬愛する「人格」の向上が必須の条件なのである。
そして、稽古で養われた「魅力」が、「人格」とほど良い按配に融合できて芸の命が生まれるのである。

 そこで、稽古とは「人格」を太らせるためのものでなければならないのである。そこに稽古の意義がある。
 しかし、現代の芸人はそれが欠けているようである。
その原因は観客にある。何故かといえば、観客が「人格」の伴わない芸でそれが上手(じょうず)だと感じているからである。それは、芸を上手(じょうず)だと感じる悪意の無い上辺(うわべ)の見方である。しかし悪意がなくとも、その見方は間違いのようである。

 この間違いが生じるのは、実はテクニックの所為(せい)かと思う。
何故なら、今や芸人においてはテクニックの中味は、従来の概念と大きな違いが生じているのではないかと思えるからである。
 では、テクニックの主旨は、本来どのようなものだったかである。
歌唱や演劇等の舞台上で生じた演技は、彫刻とか絵画のように形として残ることなく、その場で煙や霧のように消えるものである。そこで、人格という人間の心で作られた芸の美しさを伝承する技芸として生じたものがテクニックなのである。
それは芸の「型」である。後継者はこの型を忠実に、より早く修得することにあった。その伝承方法に「口移し」だったり、「手取り足取り」だったり、「見様見真似」があった。そして、より高度なものに「以心伝心」があったのである。
その典型が歌舞伎や能、狂言、舞踊等にみる「型」であり、浄瑠璃や浪曲、謡曲、長唄等の「節」である。
しかし今やそれは、伝統芸能以外の分野では、本来の本質から離れたものとなり、いつしか楽をして芸を美しく見せようとする紛(まが)い物の芸を作り出す手段になっているのではないかと思われるのである。


 深々と綿雪はこぶ静けさか ととろく庭のしずり雪呼ぶ





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