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 投稿者  安宅 関平

 次は、「悲しい酒」である。
この歌唱は2009年、38歳時におけるアルバム「波動 亜矢・美空ひばりを唄う」と、更には2010年の39歳時のアルバム「BS日本のうたⅥ」に、収録されている。

 この楽曲は、典型的な演歌である。浪曲調に似たメロディーで構成された悲恋もので、哀調のフェロモンを大量に発している。
 ところが、若い諸氏の多くが避けたがる部類の楽曲でもある。
若い諸氏にとっては、そこには哀調表現が必要以上に多いからである。
 では何故、今まで多くの人に受け入れられていた楽曲が、現在の若者において哀調過多の楽曲として受け止められるようになったかである。
 それは、経済や制度の仕組みに因って多くの精神的貧困層を産んだ時代においては、社会的閉塞感が漂い、その世相を反映してか、こうした演歌が人心の求める慰めに適ったのであろう。
しかしながら、経済的に豊かさが増し、思想的にも自由さがより開放的になった時代において、こうした楽曲は「べたつきのあるしつこさ」となって、気味悪く感じられるものになったのであろう。
同じ恋歌や悲恋ものでも、J-POPSに属する楽曲では、哀調にしつこさはなく、むしろ清潔感すら感じられるものが多い。それは、次に挙げる「心もよう」にも見られるところである。
そのため、多くの若者は後者を好み、選ぶのである。
これが時代の移り変わりというものであろう。
そうしたことは、島津亜矢さんが20年ほど以前から感じていたことである。そして、将来は力量感のある哀調が、歌謡には欠かせないものになるとして、自分の歌唱の本流に据え、それを押し通してきたことに、今、時代が叶うようになったのである。
それは、哀調の好みが陰性から陽性に変わる時代の到来を、見据えていたようである。
そしてようやく、この主旨の「哀調」が、最近歌謡界の主流になりつつある。そこには、島津亜矢さんの存在が大きく影響しているだろう。

 その意味では、この流れを見定められないできた演歌業界が、衰退の一途をたどるのもうなずける。この間に、大衆の人心は、すっかり演歌からJ・POPSへと移ったのである。
ただ最近、島津亜矢さんに遅れること20年、「演歌の乱 演歌歌手がJポップスで対決」などと銘打つ番組が出現したが、残念なことにその中味は、まだ散々である。
そこには、目先のカラオケ一辺倒に走ってきたことの、附けが廻っているのを感じる。附けとは、業界繁栄のための基盤である芸に対する工夫と努力を怠ってきたことの露呈である。
だが、遅まきながらでも、こうした番組の出現と、今後その充実が図れれば、演歌業界に新風が吹き込むかも知れない。だが、その新風の働きは、演歌がJポップスに吸収されて生き延びるのではなく、演歌にJポップスの良さを取り入れることの大事を認めることでなければならない。それが演歌復活をもたらすだろう。
そ結果の行き着く先が、島津亜矢さんにみられる力強さと明るさの歌唱なのである。

 島津亜矢さんの歌っている「悲しい酒」は、その辺りまでもよく分かるものになっている。
 それはまず、しつこさの壁を破っていることである。ここに努力と工夫の跡がある。
更に、詞やメロディーそのものが哀調に包まれているから、歌唱には哀調は必要としないのだと、この歌唱は無言で言っている。
歌い手が詞やメロディーにつられて哀調を表現しようとするから、「べたつきのあるしつこい歌」に聴こえるのではないかとも言っている。

 では、そうは言っても、島津亜矢さんの歌唱はどうなのかである。
「べたつき」のある歌唱に聴こえはしないのか、従来の「べたつき」の歌唱とどこが違うかを問いたい。
 確かに一見、「べたつき」の歌唱に聴こえるが、そのように聴こえる「べたつき」の質が全く違っている。
そこには、一種の緊張感と清新さが漂い、美しさがある。悲恋ものに付きものの冷たさがない。
それは、哀調の美に正面から向合っているからである。だから暖かさを覚える。その結果、「べたつき」ごときに見える哀調表現には、美しさがみられるのである。
では、それはどのようなものかである。
一般的な哀調の特色である「もの悲しさ」だけを、訴えているのではないことにある。
「愛」とか「恋」においては、表面の現象だけの歌唱表現では、いくら情感が込められても、その良さ・美しさは充分に伝わらないだろう。そうした歌唱は、歌唱から情感が遊離して一人歩きするから、芸にはならないことが多い。
島津亜矢さんの哀調表現の美しさは、その「もの悲しさ」という垣根を越えて、「もの悲しさ」が生じようとする流れの端に発する現象から、表現しているので美しいのである。
そのことを言い換えれば、多くの歌い手さんは、湖面に映る「愛」や「恋」の景色だけを表現しているが、島津亜矢さんはその湖面を湛(たた)えている水の色まで表現している。映る景色はその水の色によって違うことを表現しているのである。
そこにあるものは、芸の奥深さである。
その奥深さの中に、「べたつき」の破壊に挑戦する肝の座った覚悟が、見え隠れしており、それが「もの悲しさ」を清々しい美の境地へ誘っているのである。それは歌に対する心がけの違いでもある。
だから、歌唱を聴く者の心に渦巻くものは、悲しさの悲壮感ではなく、悲しさの持つ美しさである。その美を発見することに感銘を覚える歌唱となっている。
言葉を変えれば、それは哀調の芸術的表現化がなされているということである。
 ここに堕涙で歌うオリジナル歌手にない、島津亜矢さん「特有の哀調」表現がある。
堕涙で哀調を誘うのも一つの方法であり、美の芸術的表現で哀調を誘うのも、これまた一つの表現である。
その良し悪しは、表現している哀調を、受け止めて聴く者の感性によって異なる。それはそれでよいとも思われ、そこに個性があると見るべきだろう。

 こうして、島津亜矢さんの歌唱を裏返して聴いてみると、「しつこさ」の壁を破っていることや、演歌業界に工夫と努力の不足が蔓延していることを、見破れるものになっている。
 ここまで多角的に、歌唱の表現を突き詰めて聴ける歌い手さんは、何人いるであろうか。
 そして、若い諸氏に話題を振り撒くような目覚しい華々しさは、島津亜矢さんには少ないが、工夫と努力で確実に新しい歌謡の新時代を切開いている姿がそこにある。それを「悲しい酒」の哀調表現から感じて欲しいと思う。
 更に、若い諸氏において楽曲の題名を聴いただけで毛嫌いすることなく、歌唱に奥深さを見い出す力を付ければ、そこに音楽の楽しさを何倍も味わうことができると思われる。
何故なら、島津亜矢さんの歌唱のそこには、暗さや冷たさはなく、明るさと暖かさがあるからである。これは喜怒哀楽を表現するすべての歌唱に言えることである。

 次稿は、「京都から博多まで」を採り上げたい。


 野の中でながめる空に赤とんぼ 秋の訪れついに現る


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