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投稿者  安宅 関平

 これまで、島津亜矢さんの力強さの持つ「哀調」の主旨が、歌謡界の主流になりつつある要因を探ることを第一に、加えて島津亜矢さんの「哀調」が、原型から現在までに変遷した様子、更には「哀調」が垣根の無いマルチ歌唱においても必要不可欠なことなどが分かればと、欲張った目的をもって、歌唱をグループ分けしながらそれらを探ってきた。

 そこで本稿は、その最終にあたる第五歌唱群の哀調について考えてみたい。
 第五歌唱群に採り上げた楽曲は、「裏道の花」・「悲しい酒」・「京都から博多まで」・「心もよう」・「麗人抄」の五曲である。
 この五曲の楽曲に共通していることは、「男と女の愛」を、歌っていることである。男女の間に起きる「愛」の苦しさ・悲しさを、他の何かで紛らわせないほどの、どうしょうもない状態を表現したものである。
そこには、人間の弱さをみることができよう。しかしながら、これはある意味では、動物としての人間の存在理由を持ち合わせていることでもある。
 それは、自然界で起きる動物的本能の欲望によるものだからである。
つまり、人間の男女間における「愛」とか「恋」に生じる苦しみや悲しみの根源は、この自然界で子孫を残そうとするための、動物的本能に基ずく欲望にあるからだろう。
本来、自然界では、最も強いオスだけが、自分の子孫を多くの残せる仕組みになっている。そのための強さを巡る戦いは絶えることはない。
一方、メスは、強いオスを受け入れることで、自然界に適応できる強い子孫を残す本能が働いている。
それによって、自然界でその動物群の生態系が、末永く持続できる仕組みになっている。

 そうした意味では、人間は利口にできている。
恥辱心という道徳をいつしか創り上げて、異性を求める欲望をセーブして生きるようになっている。
そのため、野生動物のようなことは起きない。ただその分だけ、野生動物には無い、苦しみや悲しみを味わうことになる。

 第五歌唱群は、島津亜矢さんがこうした男女間の愛に生じる苦しみや悲しみを味わうその根源を、分かりやすく適確に表現していると思われる歌唱として、採り上げてみたものである。しかもそこには、楽曲のリズムやテンポなどの調子の異なる曲調であっても、同質にそれを見せていると思われるものに焦点を当ててみた。
 だがそれには、聴く者の側において、哀調の正しい理解は欠かせないだろう。
その理解は、表現している哀調を受け止める「感性」に係っている。
ということは、第五歌唱群の哀調は、特殊なものだからである。

 では、その特殊性とは、どのようなものかである。
まず、島津亜矢さんには二種類の哀調があった。
一つは、「一般的な哀調」が持つ「もの悲しさ」である。
もう一つは、四つの特性を持つ島津亜矢さん「特有の哀調」である。
 そこで、いままで見てきた哀調とは、どのようなものであったかである。
第一歌唱群でみたのは、自立する美しさの感動に見る哀調だった。
第二歌唱群では、回顧や、世の変化の非情さによる哀愁を見る哀調だった。
第三歌唱群では、男気や任侠心を、歌唱の裏で支える哀調だった。
第四歌唱群でみたものは、人道を説くために用いられた毅然とした哀調だった。
これらのすべての哀調は、島津亜矢さん「特有の哀調」である。

 ところが、この第五歌唱群では、それらにはない全く異質なものを匂わせている。
その異質性は、「哀調」そのものが持つ一般的な「もの悲しさ」をみるものである。この「もの悲しさ」の哀調の姿に正面から取組んでいることである。
そこで何が異質かといえば、本来、哀調なるものは、歌唱に付随して楽曲に対する感性を豊かにする働きを負託されたものであるから、正面から取組むことはないものである。にもかかわらず、正面から取組み、その美しさを前面に出している。
言葉を変えれば、哀調のフェロモンを大量に発しているのである。
更に言えば、フェロモンそのものを歌っていると言っても過言ではないものもある。
そしてその哀調は、聴く者が求めているというよりも、押し付けられているようにも感じられる。こうしたところがいままでにない特殊なものであり、異質なところである。

 そうした意味では逆に、それは哀調の「美」そのものの表現であるといってよいかと思われる。
ただ、その場合は、哀調の「美」を押し付けられる感の強さに、哀調のしつこさが出やすく、嫌われやすいことがある。
ところが、島津亜矢さんの歌唱では、それがないのが不思議である。
純粋に美しく感じる。
そこには、道徳という「理性」の部分と、愛という「感情」の部分を、巧みに使い分けて表現しているからであろう。
そのため、「愛」や「恋」という感情の、遣(や)る瀬なさの表現が、聴く者において実感として感じやすく、その実感がその人の理性によって「美」に変化するからであろう。ここが、他の芸人さんには見られない芸の魅力を感じるところである。
 それが、島津亜矢さんの哀調にみる特殊な美といえるだろう。


 そこで、そうした哀調の美を、第五歌唱群に探してみたい。
 先ず、「裏道の花」である。
この楽曲は、1999年、28歳のとき、「都会の雀」のB面として、シングルでリリースされている。また、DVD・「リサイタル2009 熱情」でも歌っている。
ただ、愚者はDVDでの歌唱は極力避け、CDで楽しむことを基本にしている。それは音と画像の両方を同時に楽しむ器用さが備わっていないからである。歌を聴くには、音に集中しないと本当の良さの発見が遅れるという悔しい思いを何度も繰返している結果である。不器用な人間は、どこまでも不器用なのである。
 さて、この頃の島津亜矢さんは、青年期の芸が佳境に入っている時期でもある。だから、はつらつさが感じられる。
そのはつらつさを以って、歌唱全体に哀調を忍ばせている。
それは、出だしに若干の不気味さがあるが、曲全体にわずかばかり感じるビートを、はつらつさで生かし、下向きな女性の愛に対する確固たる決心を、歌い手が心に植えつけた歌唱にしていることでそれが分かる。
こうして歌唱全体に哀調を忍ばせ、弱々しさを表現をする一方で、異性に対する密かな思いを感じさせるところは優しく、時には力強く歌って、印象に残る哀調表現をしている。
それは、
   「白い花咲いた 小さな小さな花だけど」
は、優しくして、
   「ひっそり咲いたよ 裏道の花」
は、強く通る声で歌い上げている。
この優しさと強さで歌い上げる双方の愛に、何故か哀調の美がある。
そこに愛することの深い味わいと、恋することの美しさが感じられる。
と言うのも、優しさの個所は別として、強く歌う箇所には、本来、哀調は似つかないものである。だからそこには深い味わいや美しさは、生じないはずである。
だが、この楽曲での歌唱には、その強さの部分に哀調がよく馴染んで美しく聴こえる。
この馴染みと、そこに見る味や美は、島津亜矢さん特有の技芸であることを知るべきであろう。
これが島津亜矢さんにしか表現できない哀調の美なのである。
そこには島津亜矢さんの歌に対する信念の思想が詰まっている。
というのは、この力量感のある「哀調」は「慰め」から「生きる力」に変わる時の美しさまでを捉えたものである。
ここに「哀調」表現の、革命に似た新風を起したのである。
そして、この「哀調」表現は今後の歌謡界に必要なものであり、必ず理解してもらえるとして、自分の歌唱の保守本流に据え、押し通してきたものである。
これが、この積年の間に亘り努力を重ねてきた、力強さの持つ「哀調」の主旨である。
その主旨による芸の内容は、明るさと強さが宿る哀調の芸である。この表現には積年の間に亘る血と涙の努力の結晶が詰まっている。
その積年の努力が実り、新風の理解が強まって、この「哀調」の主旨が、歌謡界の主流になろうとしている。

 ところで、「悲しい酒」・「京都から博多まで」・「心もよう」・「麗人抄」等々は、次稿に譲りたい。


 泣き濡れた花にさく実のやらかさに 言ひそびえたる思い絶えなむ


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