FC2ブログ

幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑥ 



 投稿者  安宅 関平

 さて、島津亜矢さんのこうした「新しい哀調」には、哀調自体の原型を見ることができる。
 では、哀調自体の原型とは、どのようなものであったかである。
それは、今日感じる哀調は、「哀れみ」から「静的哀調」へ進化発展したものであるが、元になる「哀れみ」には、「生きる力」が備わっていて、それが生活の中に生きていたと思われる。
それは、可哀想にと思う気持とか、同情することそれ自体に「生きる力」が潜んでいるからである。
ただ、その「生きる力」は微弱であった。それが微弱なだけに「静的哀調」へ発展する過程で、消えてしまったものと思われる。
そうした経緯で無くなっていた「生きる力」が、島津亜矢さんの創造した「新しい哀調」に再現されている。
ここに、哀調の原型を見るとした理由がある。
しかも、創造された「新しい哀調」では、「生きる力」が「生きる力強さ」にまで進展している。
進展した「生きる力強さ」のそこにあるものは、人間の魂へ働き掛ける積極的な作用である。この作用が情熱的感情や感動を呼び起こすという凄さ伴っている。このような働きを持つ哀調を、誰もが未だかって体験したことはないだろう。
この働き掛けは、楽曲のリズムとかメロディー、歌詞、歌唱の技術、等々の刺激で高ぶられるものとは、少し異質なところがある。
それは、島津亜矢さん特有の「声質」を駆使した大胆で不敵な感にある。この大胆で不敵な感を、一口で言えば、静けさに活力を含んだ「哀調」と云えるたろう。
その特質は、昔の「哀れみ」にみた「生きる力」は、可哀想とか同情心に付随的に潜んだ微弱な美であったが、「新しい哀調」は「生きる力」そのものの美しさに、堂々と真正面から取組み表現していることである。
これは本質的に、「哀調」の変革だと考えてよいだろう。

 ではここで、その変革性を見てみたい。
その資料として、オリジナルやカバーを問わず歌唱楽曲を、哀調の特質ごとにグループ別けして探ってみたい。
第一歌唱群に、「人間」・「ヨイトマケの唄」・「船頭小唄」、
第二歌唱群に、「津軽のふるさと」・「おさらば故郷さん」・「旅愁」・「思い出よありがとう」、
第三歌唱群に、「会津の小鉄」・「男 新門辰五郎」・「花の幡隋院」、
第四歌唱群に、「川」・「竹」・「波」・「富士」・「山」「年輪」、
第五歌唱群に、「裏道の花」・「悲しい酒」・「京都から博多まで」・「心もよう」・「麗人抄」、
この五通りの歌唱群のグループ別けである。

まず、変革性の最たるものは、第一歌唱群の楽曲「人間」、「ヨイトマケの唄」、「船頭小唄」にみる、倒れて立ち上がるときの感動の美しさを、表現する鮮やかさである。
 これはどうして起きるのであろうか。

 元々、島津亜矢さんの歌唱における「哀調」の特質の第一は、静けさに活力を含んでいることから、すべての楽曲に相性がよいことである。
ということは、島津亜矢さんの哀調には、多様性が備わっているのである。
その「哀調」の多様性は、五つの歌唱群のすべに性格が合っていることで証明できるであろう。
また、第一歌唱群のなかからでも、その多様性を読み取れる。
第一歌唱群にみる哀調は、一律的ではない。
三曲とも哀調は違っている。歌唱の同一性を感じて集めた歌唱群であるにもかかわらず、それぞれが魅力ある力強さを持って聴こえる。ここにも多様性のよさが見られる。
次に島津亜矢さんの歌唱における「哀調」の特質の第二は、「哀調」によって芸が生きて感じられることである。
それは、歌唱の底や裏に哀調が伴われて、それが隠し味となり、ほど良い心地よさで心に沁みることである。そこに、芸が生きていると感じることにつながっている。このことは、五つの歌唱群のすべてに云えることである。
また、明治以降、西洋音楽に、哀調をかぶせた楽曲が出回り、いまやそれが様々なジャンルに別れ、あふれている。そのすべてに存在しているのが「哀調」である。
島津亜矢さんの歌唱における「哀調」の特質の第三は、様々なジャンルのすべてに「哀調」を見る、垣根の無い歌唱振りである。
ジャンルを問わず歌唱する楽曲が、聴く者の心に心地よく響いて入ってくることで、それがよく分かる。
それは何故かと考えれば、哀調の使い方に、日本人好みとなるような巧みさがあり、それに追い討ちをかけて迫る、芸人の慈愛があるからであろう。
 ところで、その垣根の無い歌唱の本質は、先人が生きる盾とした哀調を引き継ぎ、それを現代人に分かりやすくして表現することで、心地よさと感動を呼び起すのであろう。それを、注意深く聴くと、歌を哀調ですべて丁寧に染め上げていることに気付く。
 そこで注目したいのは、歌を哀調で染め上げるとき、他の芸人に見られない大胆不敵な染め方をしていることである。この染め方には、不退転の勇気が必要であったろう。
その勇気によって、哀調の性質を芸の中で最大限に生かすという、島津亜矢さんの優れた一面を、見ることにつながるのである。
その生かし方が、また素晴らしいのである。
それは、聴く者の内面に魂のこもった情熱的・感動的な情感を、呼び起こすことである。それによって、哀調は「生きる(=生存する)希望」の性質を帯びた力強さを持つ哀調になるのである。
この哀調の特質が、第一歌唱群の三曲において、共通して働いている。

 そこで、五つの歌唱群にみる個別の特徴を見てみたい。
 第一歌唱群の特徴は、慈愛の情感が先に立ち、歌唱中の哀調の認識度は極度に高いものではないにもかかわらず、後味(あとあじ)に「哀調」の味の好さが、いつまでも残ることである。
それは、歌声に掛かっている声質の「哀調」の所為でもある。
それは澄み切った高音域の歌声に伴われる「哀調」にある。
この、「声質にある哀調」に、先人の「生きる盾とした哀調」が加わると、歌唱の声質は、絶叫に似た力量感を見るものに感じられる。
この絶叫に似た力量感は、聴く者を何故か奮い立たせる。更に、そこに感じられるソウルフル感が、人心を激しく抉(えぐ)りに来る不思議さを持つ。
この現象は、「人間」の歌唱に色濃く出ている。
こうした歌唱は、哀調で人間の魂を揺り動かす「極限の表現」であろう。
その極限の表現が、生きる「激」となる勇気の言挙(ことあ)げとなっている処に「生きる力強さ」をみるのである。
 これが第一歌唱群にみる、「慰め」から「生きる力」に変わる時の美しさまでを捉えた、力量感のある哀調の美である。
つまり、自立する美しさなのである。
 大衆の多くは、この第一歌唱群にみる島津亜矢さんの高音域の持つ、哀調感の響に、無意識のうちに心を奪われるのは、よく理解できる。
中でも、「船頭小唄」の最後の高音の歌声は、その典型である。
 これが、島津亜矢さんの「ここ一番の強さ」の秘密を支える哀調である。

 次稿では、第二歌唱群を追ってみたい。


 風の盆迎えたる身は病み深き むかし語りし坂は上れず 


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿