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 投稿者  安宅 関平

 話は脇道にそれたが、島津亜矢さんの哀調には、美空ひばりさん、三橋美智也さん、三波春夫さんにみられた哀調のほかに、このお三方には無い島津亜矢さん特有の哀調がある。
それは、魂のこもった情熱的・感動的な情感によって、呼び起こされる「生きる(=生存する)希望」の性質を帯びた哀調である。
島津亜矢さんはこの特有の哀調を、芸の中で最大限に生かしている。
この哀調を、歌唱の底部に居座らせて、時に大きく膨らませたり、時には小さく縮ませたりすることで、哀調の活動が生きるという技芸まで心得ている。

 ところで、歌唱にこうした性質の哀調が居座ると、どのような芸になるかである。
その究極の歌唱が、長渕 剛さんが作詞・作曲した「人間」のカバー曲かと思われる。原曲はフォーク調で、男女の恋の遣る瀬なさを滲ませた哀調で、歌っている。島津亜矢さんはその原曲に、島津亜矢さん特有の哀調を塗(まぶ)し、楽曲に魂を注ぎ込んでいる。
 このカバー曲は、島津亜矢さんが28歳という若い成長期にある頃の作品である。現在の歌唱振りよりみると、やや荒削りな面が僅かばかり感じられるが、声に鋭い切れと艶がある。その所為か、歌が力量感を伴って聴こえる。かと云って、そこには見逃せない哀調の奥深さが、気品をもって光り輝いている。
それらが相まってか、哀調が前面に出ているようには聴こえない。
だが、楽曲を聴き終わった後味(あとあじ)に、哀調を帯びた歌声の良さが、じんわりと滲み出てくる。これは楽曲全体に「哀調」の効果が及んでいることから来るものであろうし、そこに横たわる哀調の気品から発せられているものであろう。
その意味では、歌唱中の哀調の認識度は低いにもかかわらず、後味(あとあじ)にこれほど明確に「哀調」の強さを表現している歌唱は見当たらないように思われる。

 これは、歌声に掛かっている声質の「哀調」が、楽曲全体の裏側にピタリと貼り付いて感じるが、力量感によって哀調特有の沈んだ暗さは薄れている。その分、歌唱の声質は絶叫に似たものに感じられる。それが、聴く者を何故か奮い立たせる。更に、そこに感じられるソウルフルさが、大衆の肺腑(はいふ)を、激しく抉(えぐ)りに来ている。
実は、この抉(えぐ)りに来るソウルフルさに哀調が潜んで、楽曲そのものが暗さの無い「哀調」で構成されたごときに、聴こえるのであろう。
こうした哀調の効果は、島津亜矢さんでしか発揮できない歌唱の特異性かと思われる。

 ところで、「人間」のカバー曲から受けるこうした「哀調」は、島津亜矢さんの哀調表現の原型である。それ以前の哀調は先輩のもの真似で、まだ自分のものになっていないようであった。現在、感じられる哀調は、この原型が変革されたものである。それは力強さはやや抑えられて、品格が増し優雅になっている。

 こうした哀調の居座った究極と思える歌唱の特異性は、哀調が歌い手によって「力」を与えられると、凄い働きをすることを物語っている。
その凄い働きとは、そこに感じる哀調が、人心の安寧に通じる感動を呼び起こす働きを併せ持つことの凄さである。
この凄さは、哀調が本来持っている、もの悲しい静的美意識の性質に、人を救う想いのある魂という情熱を加えることで起きている。そして、歌唱の力量感は、この情熱から発せられている。
この凄さを持つ歌唱の良いところは、「哀調」で人間の魂を揺り動かすことができる、極限の表現であろうと思われるところである。

 この発見は、亜矢節の「極意」の発見に、通じるものかと思われる。
これが、島津亜矢さんの声質が持つ「哀調」の本質であろう。
それは「ヨイトマケの歌」「船頭小唄」などの歌唱にも、共通して言えるかも知れない。しかし、この二曲には力量感を含み持つが、もの悲しい静的美意識の哀調が前面に出ている。「人間」の歌唱にあるような魂の震えが哀調の膨らみを勝っていて、それが生きる「激」となる勇気の、言挙(ことあ)げと感じられるものにはなっていない。

 こうした力量感のある哀調は、島津亜矢さん特有の表現で、美空ひばりさん、三橋美智也さん、三波春夫さん等にはないものである。
「人間」のカバー曲に見る島津亜矢さんの「哀調」の原型が、その後の舞台経験や、時間の経過を経て進歩・発展してきた。そして今や、島津亜矢さんの芸における「ここ一番の強さ」の秘密を支えている。


 花街の納涼床を渡る風 ふわりやらかし舞妓のごとき


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