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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑦

 

投稿者  安宅 関平

 さて、脇道にそれていた話を元に戻したい。
それは、羽生善治氏、松井秀喜氏、島津亜矢さんという三者の、活躍に必要な人格陶冶の、共通点は何であったかについての話である。
 まず、共通点の一つ目は、「努力」であった。それに関してこれまで5回にわたって追い続けてみた。
 では、共通点の二つ目は何かである。
それは、常に「全力を絞れる」という集中力である。
 羽生善治氏は、局面打開時には「羽生にらみ」とか、髪に「寝癖」を現してまで対局に挑むなど、仕草や態度に全力を絞る姿がみられる。
 松井氏は体調のよい時も悪いときも、常に全力でプレーした。
それはゲームでの走塁や、守備におけるボールを追う姿で分かった。その下向な姿勢が高い評価を受けた。
 こうした羽生善治氏や松井秀喜氏の一生懸命さの姿と同質なものが、島津亜矢さんの芸にもみられる。
島津亜矢さんの最大の取り得は、「無心で頑張る」この一生懸命さを、舞台で感じることである。
大衆が島津亜矢さんの芸に魅了される要素の一つがここにある。
これについては、従来より機会あるごとに論じてきているので繰返さない。

 更に、共通点の三番目は、「ここ一番の強さ」の秘密である。
 羽生善治氏においては、心を空にして盤面に立つことだった。すると駒が勝手に盤上を駆け巡る。それを夢中で追うことである。
 松井秀喜氏においては、ここぞと云う時に結果を出すことが多かったのは、雑念にとらわれずに頭をクリアにして、打てるゾーンに来る球を意識しそこだけを打ち返してやれば何とかなると、1球の集中力に心掛けたことである。
松井氏や羽生氏の、「ここ一番の強さ」の秘密はこうしたところにあった。

 ところでこの両氏の、このような「ここ一番の強さ」の秘密に対して、島津亜矢さんもそれに劣らない秘密を持っている。
それは、舞台に立つまでは色いろと悩みもするが、舞台に立った以上はすべてを捨て「白紙で芸に集中」するところである。
島津亜矢さんの場合は、「白紙で芸に集中する」その姿に、恥も外聞もなく成長の痕を大衆に見せていることである。
それは未完の芸姿をみせていると云う意味ではない。完成に至った努力の痕跡をみせているのである。
それがコクのある芸となって、深みを与える結果を招き寄せている。この作用が楽曲への感情移入の自然さを引き出して、メッセージ性の鮮明さを際立たせることにつながっている。
島津亜矢さんの「ここ一番の強さ」の秘密は、この「白紙で芸に集中」するその姿にあるが、その裏にはそれを支えている礎(いしずえ)が幾つかあることに気付くのである。
その礎(いしずえ)が、芸への自然な感情移入やメッセージ性の鮮明さへの形を作り、人心を共感させる土台になっている。

 その「白紙で芸に集中」できる礎(いしずえ)の一つは、「歌声」である。
この歌声は、芸への自然な感情移入でメッセージ性の鮮明さをかたち作り、人心を共感させる効果の中心となっている。
この歌声には、声量の豊かさと音域の広さを感じる。そして伸びやかである。透明感・澄清感(=澄み切っていて清らかなさま)もある。しかも艶まである。中でも高音の美しさは、パワフル感まで伴っている。
これらが芸の表面に現れ、大衆に好まれているのである。
 「歌声」のこうした特色は、歌唱に含まれている喜怒哀楽のどような場面の表現にも、その良さを発揮している。
だから楽曲に含まれる喜びや怒り、更に悲しみや楽しみを、自在に大衆の胸に届けられ、それによって共感が得られやすいのである。
この共感は、歌声が大衆の心に共鳴し感動を誘発することで、歌が上手いと感じることから得られるのである。

 ただ、不思議なことがある。一人の人間の声で、こうした正反対の質の違う感情表現を、両方とも上手いと感じるように歌えるとは、神業(かみわざ)に近いと思えることである。
しかし、現実にそれがなされ、大衆の胸を打ち鳴らしているから神業(かみわざ)ではないようだ。
 その事例を、最近のNHKの歌番組等から9曲ほど採り上げてみたい。
 「新BS日本のうた」の中からは、
2018年7月29日の「海鳴りの詩」、
2018年2月28日の「人生将棋」、
2018年1月7日の「一本刀土俵入り」、「仰げば尊し」。
 「歌コン」からは、
2018年7月17日「海の声」、
2018年4月17日「お祭りマンボ」、
2018年3月6日「DREMING GIRL」、
2018年1月30日「雪の華」。
 また、「CD」によるものとして、
2017年9月20日リリースの「I CANT DO ANYTHING」を加えてみたい。
 この9曲でも分かるように、曲調は演歌からPOPS、唱歌、アニメと多岐にわたっている。しかも、リズム感もすべてに違いがある。更に歌声の表現も、それぞれの喜怒哀楽がバラエティーに富んでいる。
そうでありながら、表現のすべてに楽曲に託されているメッセージの説得力が伴われている。そのためか、分かりやすくて心に響いてくる。

 これこそが、星野哲郎氏から学んだ自然体での芸である。
誤魔化さない芸である。
情景描写の鮮やかな芸である。
曲に命を吹き込む芸である。
それは、決して新しいものでもなければ、新境地なものでもない。
芸として昔から求められているものである。また稀有の才能とか、ジャンルの範囲云々とかを思われる向きもあるかも知れないが、それらは芸質の核心に迫ると思うには、少し無理がありそうだ。
何故なら、これらの芸は無心の芸か、それに近い芸だからである。
人格の向上によって生まれる自然体の芸のよさはここにある。
こうした芸には、才能とかジャンルは、関係しないのである。
この現象は、人格の陶冶によって引き起こされる現象に過ぎず、芸人なら努力すればどなたでも叶えられる範疇の芸なのである。
こうした人格の向上を伴って発揮される芸には色いろあるが、島津亜矢さんの場合、その人格性を70%に抑えて披露しているためか、大衆は何故か芸の鑑賞には心に余裕を感じる。そこに島津亜矢さんの芸を楽しめる「壷」がある。
 この大衆の心に生まれる余裕を醸す作用は、「ここ一番の強さ」の秘密の裏にある歌声にあり、その歌声が「白紙で芸に集中」できることを支える展開で、できているのである。
 
ところで、白紙の芸を支えている歌声に、不動の「要(かなめ)」となっているものは何かである。これは島津亜矢さんの芸の鑑賞に欠かせない大事なことである。
それについては、次稿で探ってみたい。


 細き枝の先につけたる桐の花 淡い紫いまはいずこに


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