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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-①



 投稿者  安宅 関平

 本稿からは、島津亜矢さんの芸における、マイルド感について考えてみたい。
マイルド感のある芸は、以前からもみられたものである。
それにもかかわらず、ここで改めて採り上げるのは何故かである。
それは、以前のマイルド感と2011年以降の新マイルド感には違いがあるからである。
では、どこがどのように違っているのか。
その違いの要因は何か。
更に、この新しく感じられるマイルド感は、そもそもどうして起きたのか、等々の疑問について考えてみたい。

 先ず、旧マイルド感と新マイルド感の違いと、要因を探ってみたい。
 アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」に見られる新マイルド感によく似たものは、確かにこのアルバム以前の芸においても味わうことができた。
 では、新マイルド感は、旧マイルド感とはどこに違いがあるかである。
仮に違いはあったとしても、一見、芸におけるその効果は同じか、よく似たものであるとすれば、詮索の必要はないとも思う。
 だがそれでも、違いの詮索を必要とするのは、それなりの事由があるからである。
その事由は、その違いの要因を知ることで分かるように思われる。

 新マイルド感と旧マイルド感との違いは、芸が地に着いているか、否かの違いである。
 地に着いた芸は、「本物の芸」である。
「本物の芸」は、芸が自然体で落ち着いている。新マイルド感はこの芸のなかにある。
だから美しいのであり、心に沁みる楽しさがある。これが「本物の芸」の魅力を増幅している。
 一方、地に着かない芸は、「本物の芸」の中に見るような魅力が無い。旧マイルド感はその中から生まれている。
そこで魅力ある芸に見せようと、過酷な苦労と努力を必要とするのである。それによって、地に着いた芸と同じ効果を引き出そうと目論むのであるが、それが功を奏するとは限らないという不安定さがある。
言葉を変えて言えば、苦労と努力の伴った芸は、「本物の芸」に至る途中の芸だと解すれば、そこのところは分かりやすいだろう。
そして、芸によって必要とする苦労と努力の質や量の違いは、「本物の芸」との乖離差によって決まるのである。
その結果が一見、芸における効果は「本物の芸」と同じか、よく似たものとなるということである。
 新マイルド感と旧マイルド感の違いとは、言い換えれば、新マイルド感は「本物の芸」から生まれたものであり、旧マイルド感は本物の芸に至る「途中の芸」に生まれたものである。
そこには生まれた基盤の土壌に違いがある。だから、マイルド感の質にも違いが生じるのである。
これが新・旧マイルド感の違いと、その要因である。

 ところで、島津亜矢さんの旧マイルド感には、新マイルド感に匹敵する魅力があった。
それは一見、芸における効果が同じように感じられた。
それは、「本物の芸」との違いがあるにもかかわらず、安易にその違いを認めたり妥協したりせず、誠実にその差を埋める努力を、納得できるまで重ねていたところにある。こうした芸に対する誠実さと一生懸命さの魅力が、「本物の芸」にしかない魅力以上のものを含んで、至らないところをカバーしていたからである。
こうした魅力は世阿弥のいうところの、芸の未熟期における「一時の花」であったのである。
この花を持てたあたりに、並みの芸人ではないところがある。

 更に、旧マイルド感と新マイルド感の違いに、もう一つ要因がある。
 その要因は芸に取組む姿勢と人格である。
「本物の芸」における芸人おいては、技術を超えて心で芸に取組んでいる。
そして芸では、持っている人格を、70%に抑えて披露しいる。
その分、芸に余裕が感じられる。
この余裕は、芸に接する大衆の心を豊かにしてくれる。
大衆は心が豊かになることで、スムーズに芸を深く理解できる。するとストレートに芸が心に響き、安心感を持って楽しめるのである。だから芸が終った後は心が爽やかになる。
 本物の芸に至る「途中の芸」にはそれがない。
それは人格が不足しているからである。その分だけ芸の未熟さとなって表面に出るのである。
そこで、多くの芸人はテクニックとか要領のよさと言ういわば、まがい物の芸で補おうとするため、不自然さが目立つのである。
人格の不足は、テクニックとか要領のよさでは、賄(まかな)えないのである。
ただ、島津亜矢さんはまがい物で補おうとはせず、苦労と努力を重ねて「本物の芸」に近づけようとした。
だが、それでも芸に余裕はない。楽しめる安心感に豊かさがない。
こうしてみると、努力と苦労を厭(いと)わない島津亜矢さんでも、「途中の芸」では、この部分だけは賄(まかな)い切れてなかったようである。
 このように、島津亜矢さんの新マイルド感と旧マイルド感は芸に取組む姿勢と人格にも影響されている。
そのため、新・旧マイルド感の違いと要因は、外見に見る芸のハードな部分よりも、こうした秘められたソフトな部分にあるものと思われる。
 以上が、新・旧マイルド感の違いと要因である。

 なお、この新しく感じられるマイルド感は、何故起きたのか、については次稿で探ってみたい。


 麦秋の穂を揺らし行く麦嵐 凪ぎて飛び立つ小雀一羽


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