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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑪



 投稿者  安宅 関平

 さて話は、五輪まゆみさんの「恋人よ」にみる人間の「愛惜の念」に戻るが、若い諸氏においてはこうした愛おしい苦行の大事は、もう少し大人になれば、分かるだろうと思わない方がよい。
こればかりは、年を重ねるだけでは分からないものと思われる。
本当の辛さは、不意打ちの破壊に出会わないと、分からないだろう。
 その意味では、不意打ちの破壊に出会っていない人においては、島津亜矢さんの星野哲郎氏に対する愛惜の念の真の理解は、かなり難しいかと思える。
 では何故、難しいかといえば、この種における「愛の支え」を失うときの感情だけは、奥深くしかも強い絆がからんでいるからである。
特に、その奥深く強い絆となる親子の絆や夫婦の絆を例に挙げれば、日頃から空気のように当たり前のごときその絆の存在は、至極当然なこととして、何の疑問も持つことはなかったはずである。そのことは、意識を必要としないほど自然なことで、必要不可欠なものだったのである。
それだけに絆が切れ、愛の支えがなくなると、そこに生じる反動は、大きいものになるのである。
その反動現象とは、その当たり前の日常の中おいて、心にぽっかりと穴が空き、大きな空洞ができるのである。その空洞で大事の重大さが、初めて分かるのである。
そして、この空洞には寂しさ、むなしさ、無力感という怪物があふれんばかりに埋まっている。それが無原則に襲ってくるのである。この怪物は、理屈や理論では計れない複雑怪奇で、悩ましいものである。それは生きる希望を消し去るほどの影響もある。
 人と人のつながりの中でも、奥深く強い絆となる親子の絆や夫婦の絆とは、こうしたところに特別さをみる関係だといえよう。
このように、人の多くは、自分の最も大切な人を亡くして初めて、その大切さに気付くのである。
人の世とは、そういうものである。
それを古代から繰返して来ているのである。
だからこれだけは、もっと大人になれば分かるだろうと思うほど、甘くはないというのである。
 「恋人よ」は、その表現の典型であるいえよう。

 この現象は、島津亜矢さんの場合でも例外ではない。
師と仰ぎ父と慕う星野哲郎氏を亡くすると、そこへ襲ってくる孤独感にさいなまれることは必定である。それだけ、その存在は大きなものだったのである。
その直後は、その存在の大きさに、押しつぶされそうだったであろう。
それはポッカリあいた穴を埋め戻せないからである。
多分、生涯埋め戻せないだろうが、島津亜矢さんはそれを少しでも埋め戻すために、「芸を極める」という灯りを見出したのである。そしてその実現に、努力を図っているものと思われる。

 これが外部要因の変化によって、影響を受けた内部要因の変化である。
これによって分かるように、芸は確実に第三楽章から、第四楽章の到達点である「無」に向っているように思われる。


 ふきの葉が小雨に濡れるその根っこ 誰を待つやら動かぬ蛙(かわず)


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