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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-③~「芸の魅力」⑰-④島津亜矢さんの芸の深層(中の上)



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの歌唱には、歌の奥にある「芸の誠」を観客と共に探したいとする姿勢がみえる。
では、何故、自分だけでなく観客をも誘うのであろうか。
それは、「芸の誠」を共有したいからであろう。
 ところで、この「誠」の共有は、並みの芸人には思いもつかないことである。
と言うのも、並みの芸人においては、芸が「本物の芸・生きた芸」の領域に接する面が少ないという要因があるからだ。
だが、そうしたことの有無に関わらず、本来芸なるものは、芸の矢を射る芸人とその矢を受ける観客とは、「楽しむ」という行為を挟み対立する立場にある。
そのため、芸人は「楽しめましたか」と必ず問いかける。これに対して、観客は「楽しめたよ」と応えることが多い。その結果、「それは、よかった」として、芸の披露はこの双方の安堵によって、めでたく落着する。これが現在の一般的芸能鑑賞となっている。
 しかし、「本物の芸・生きた芸」においては、そこで終ることはない。
その奥に何か訴えるものを忍ばせ、残している。
それは「人間の本性」と云うべきか、あるいは「生物の本質」というべきものである。これを含んでいるのが「誠」である。
この「生物の本質」の詳細については、前稿で先送りした「誠」の詳細と同様に、後日に別稿において投稿の機会を持つ予定から、ここでは採り上げない。

 さて、では芸がその奥に忍ばせている「誠」を掴むには、どうすればよいかである。
それには、観客においては「誠」を見い出せる鑑賞力を必要とし、芸人においては「誠」を見つけ出せる余力のある芸を披露する必要がある。この二面がなければ「誠」は掴めない。
余力とは、芸が聴く者に精神的余裕を感じさせ、芸の周りを観察できるゆとりを与えることをいう。
では、その余裕はどこから来るかである。
それは歌い手の音域、声量、リズム、個性、歌唱の技法等々が、楽曲に複雑にからみあって豊かな美しさを発揮するところから来るものである。
これによって感動が舞込む。この感動が鑑賞力に変身する。この鑑賞力が、芸の奥にある本質を感じ取るのである。ということは、観客の鑑賞力は芸人の余力ある芸から生まれることになる。

 その意味では、島津亜矢さんの芸には、何故か十二分な余力が感じられる。
ただ、島津亜矢さんの場合は、その余力は音域、声量、リズム、個性、歌唱の技法のよさというだけではない。目先のことにとらわれない、先を見据えた目的と言う目標を持っていることからもきている。
島津亜矢さんはこの目的を、常々口にしている。
それは、「お客様の心に響く歌が歌えるように」という主旨の言葉である。
この心に響く目的の芸が、いわゆる世阿弥の説くところの、「芸があらゆる人の心を豊かにし、感動を生むことで『寿福増長』『遐齢延年』の効用を生む」としたことに通じている。これは芸能の本質である。
島津亜矢さんは芸の目的を「心に響く歌」とし、その歌をもって芸能の本質に迫ることを目標に精進しているものと思われる。

 こうしたことから、島津亜矢さんは先を見据えた目標の攻略のため、自分の芸が観客の鑑賞眼力を養う機会となるよう、芸に充分な余裕を持たせて「誠」を探そうと誘っているのである。
そして、観客がその「誠」の輝きを見つけたり掴めたりしたときは、その芸は更に観客の心をより強く締め付け、歌唱に誘導されるがままに、心地よく芸について行こうする決心がなされる。
この決心こそが、人格が一皮むけて向上する働きをなすきっかけとなるのである。そのきっかけを大切に熟させてると、結果として豊かな人間性につながることとなる。
世阿弥のいう芸があらゆる人の心を豊かにするとは、こうした現象を指すものであり、また、島津亜矢さんの歌の奥にある「芸の誠」を観客と共に探したいとする姿勢も、この現象を促すためのものである。
 このことを言い換えれば、真摯さと誠実さと謙虚さを感じる芸の美しさに魅せられるものがあるのは、芸の奥に潜む「誠」が美しいからである。
この「誠」が美しいと感じることは、鑑賞力をもって「芸の誠」を掴んだ証である。その証の具体的内容は、芸を表現する芸人や楽曲の製作者の真情・真実性に、共感できたことであるといえる。
 島津亜矢さんの「芸の誠」を観客と共に探したいとする姿勢には、こうしたことを共有したいという心の優しさがあるからであろう。


 ところで前稿の最後に、12月31日の第68回紅白で、NHKが島津亜矢さんの着物を脱がせられるか、この攻防が見ものだと記した。
そこで、攻防している両者の心境の要旨は、北島三郎さんの歌唱曲「山」と「川」に表現されているように思える。
 島津亜矢さんは、NHKの攻めに対して、「もっこす精神」を発揮すれば、そのこころは「川」の歌となる。それは島津亜矢さんらしい返歌である。
   「川の流れと 人の世は 澱みもあれば 渓流もある
    義理の重さを 忘れたら 立つ瀬なくして 沈むだろ
    黙って 男は 川になる」

 一方、万が一、NHKが島津亜矢さんを攻めあぐめば、そのこころは「山」の歌に似た心境になるだろう。
   「流れる雲の 移り気よりも うごかぬ山の雪化粧
    頑固印の野良着をまとい 生きる師匠の 横顔に
    おれは男の 山をみた おれもなりたい 山をみた」

さて、この攻防の決着は、今日見ることができる。楽しみである。


 いさぎよし藪のかたわら落椿 白雪のうえ音も立てずに





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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-③~「芸の魅力」⑰-④島津亜矢さんの芸の深層(上)



 投稿者  安宅 関平

 さて、真摯さと誠実さと謙虚さが、島津亜矢さんの芸にバネとなって絡むとは、どのようなことであろうか。
そして、それが「芸域」にどう影響しているかを探ってみたい。

 島津亜矢さんの芸に接すると、真摯さ、誠実さ、謙虚さを感じ、芸がまろやかで美しく映る。それは真摯さと誠実さと謙虚さが、芸と一体化して馴染んでいるからであろう。
更に、より注目すべきことは、それらの馴染んだ芸が、観客に楽しんでもらおうとする範疇(はんちゅう)を超えて、芸の更に奥深いところにある何かを、共に探しにいこうと誘っている姿にみえてくることである。
芸がこのような姿にみえるのは、影で真摯さ、誠実さ、謙虚さが柔らかく芸を包んでいるからではないかと思われる。
 では、真摯さ、誠実さ、謙虚さは、島津亜矢さんの芸において、どのようなさまとなって現れているのであろうか。
そこで、「真摯さ」とは、真面目で熱心なさまを言うものである。
「誠実さ」とは、私利私欲を交えず、真心をもって人や物事に対処するさまを言うものである。
「謙虚さ」とは、控えめで、つつましいだけでなく、へりくだって素直に相手の意見などを受け入れるさまをいうものである。
 こうした概念からすると、島津亜矢さんの芸におけるさまは、真剣に取組む「姿勢」の純粋さと、歌に尽す心情以外に何の不純さもない熱心さで、芸の向上に貪欲であるという真情を吐露している様子を指すものである。

 次に、ではそうした中で観客と共に何かを探そうとするのは、どのようなことかを探ってみたい。
その探しものは、芸に取組んでいる姿勢の、その奥にあるものであろう。
その奥あるものとは、芸にまつわりついている「芸の誠」でしかない。
もっとも、この「誠」を探して当てることが、芸人に課せられた「宿命」でもある。この「誠」の細事については、後日に別稿において投稿の機会を持ちたいと思っている。そのため、ここでは採り上げない。
 さて、芸人の「宿命」については前稿において、「魅力」を求める観客に「極める芸」で応じることの、芸の「魅力作り」に必要な苦労と努力が課せられる命題ということであった。
今回のこの「誠」は、この「魅力作り」を構成する要素の一つである。
このようにして「魅力作り」の要素を、一つひとつ観客と共に探し当てようとする芸が、島津亜矢さんの芸の特質であると思うことで、芸の楽しさがより増してくる。

 ところで、島津亜矢さんの芸に拡がりを見ることについても前稿で、過去から積上げたところの「魅力作り」に要した宿命の跡が、顔を出すときであるとしていた。観客はそれを見聞きするたびに芸に拡がりを感じ、心に余裕を覚えるというものであった。
 では、拡がりを感じる宿命の跡が芸の中に顔を出すときとは、どのようなときであろうか。
それについては、芸に真摯に取組む姿勢の中に、歌を愛敬する深意が宿る心の、美しさを見せるときである。その美しさが芸を輝かせている。宿命の跡が顔を出すときとは、この輝きをみるときである。
ここでの「深意」とは、芸に対する愛敬から生まれる「誠」のことである。この「誠」は美しい。雑念を洗い流す美しさがある。
島津亜矢さんは、この「誠」を共に探そうと誘っているのである。

 ところで余談になるが、来る12月31日の第68回紅白で、島津亜矢さんはベット・ミドラーの「The Rose」を披露することに決定した。楽曲についてはそれぞれ好みのあることから、講釈は避けたいが、この決定で興味深いことは、出場4回目にして始めてNHKが島津亜矢さんの着物を脱がせられるかである。この攻防が見ものである。


 晩秋に花芽をつけて冬を待つ 木々の枝先いま春のごとき





幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑮-③~「芸の魅力」、布施明さんとのコラボでの芸域


 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの舞台芸の中で「芸域の広さ」を感じる事例についてである。

 一般的に芸域が広いとは、歌える楽曲の量、ジャンルの幅、歌唱時間の長短、リズムの種類等を問わずに歌いこなす芸人を指すものであろう。それはそれで楽しいものである。
だが、ここでいう「芸域の広さ」とは、こうした表面上の現象から少し距離を置いた芸の、芸域を見つめてみたい。
というのも、仮に1000曲も2000曲も歌いこなす芸人がいたとしても、それだけで芸が「七色に輝くか」である。
七色に輝くとは、その芸に心が宿つて光り輝くことである。心の宿らない調子で1000曲、2000曲歌っても、それは1曲でしかないように感じられる。テクニックや知識だけの芸は、芸とはいえないということである。
 ここで言う芸とは、芸人が楽曲の心を自分に取り込み、幾度も反芻(はんすう)してその心を考え・味わい・熟知し、そこから得た自分の味を芸の中に表現することでなければ芸として通じないものであると、世阿弥は後継者に伝えているからである。
さらに、反芻による味の要は、他人の心を解する能力にあると言っている。
他人の心を解する能力は、その人の経験則によって得られるものである。
人は生まれて10年程度の間に、喜怒哀楽の基本となるすべての経験を味わう。その後は、その経験を応用し他人の心を解する能力を養うのである。その能力を芸に持ち込めるかは、その芸人の力量であるとしている。
 このように芸に「芸域の広さ」を感じる基盤は、芸人のこうした「心」の中にあるというのである。

 ところで、島津亜矢さんの芸には、上記の他人の心を解する能力の力量が豊富なだけではなく、それに加えて「宿命」を大切にするところがみられる。ここが他の芸人さんとの違いである。
それは、いかなる場合においても、人が目的を成し遂げるには、努力と苦労を背負うという「宿命」があるということである。買えない足袋の一足の苦渋は、その最たる事例である。
 さて、野球界で松井秀喜さんがそうであったように、芸能界で島津亜矢さんがそうであるように、天才といわれる人ほど、その「宿命」を大切にしている。その意味では、天才という言葉は、「宿命」を乗り越える能力の大きさを指しているようである。
 その努力と苦労を背負う「宿命」には、それぞれが取組む目的によって種類がある。
松井秀喜さんの野球における「宿命」の種類は、より多く球を遠くへ飛ばすことにあった。
島津亜矢さんの芸能における「宿命」の種類は、「魅力」を求める観客に「極める芸」で応じる「魅力作り」にある。これが熟すれば「衆人愛敬の芸」に化けるのであろう。
 特に、島津亜矢さんの芸に拡がりを見るのは、過去から積上げたところの「魅力作り」に要した宿命の跡が、顔を出すときである。
この「宿命」の跡は、音楽のジャンルとかリズムの種類とかを問わず、歌唱のすべてに顔を出す。それは「秘すれば花」に紛れ込んでいたり、「煮え花」や「お焦げ」の中に存在していたりする。
観客はそれを見聞きするたびに芸に拡がりを感じ、心に余裕を覚える。
島津亜矢さんの芸には、この余裕が歌う楽曲のジャンルや舞台の構成に関係なく生じることから、結果として、それが「芸域の拡さ」となって印象深く残るのである。
では、その具体的舞台芸の事例を挙げてみたい。

 それは、2009年3月15日、及び2017年10月29日NHK放映の「BS・日本のうた」と「新BS・日本のうた」で披露した北島三郎さんとの共演の芸である。今ひとつは、2015年11月24日、NHK放映の「歌謡コンサート」で島津亜矢さんの見せた布施明さんとの「マイ・ウェイ」のコラボレーション歌唱である。
北島三郎さんとの共演の芸は、2017年11月15日の投稿で採り上げているので、ここでは布施明さんとの「マイ・ウェイ」のコラボレーション歌唱を採り上げる。
ただ、知人によると、布施明さんとの「マイ・ウェイ」のコラボレーション歌唱は、これが二回目だという。一回目のそれは恩師・星野哲郎氏が鬼籍に入られた2010年の頃だというが、その歌唱はお目にかかっていないことから、対象からはずすことにする。今回、採り上げる歌唱は、2010年のそれから5年経過した時のものである。

 ところで、2015年11月24日の歌唱で何がそれほど印象に残ったのであろう。
 それは、第一に芸に対する真摯さである。
真摯さは、脇目も振らない一所懸命さに感じられる。
 第二は、誠実さである。
誠実さは楽曲に対してもそうであるが、コラボレーションの相方に対してもそうである。
楽曲に対しては自分の分身に似たもののように、「親身に尽くすがごとき」気持で取り扱っている。
相方については、接し方に真心が篭もっている。
 第三は、謙虚さが終始滲み出ていることである。
謙虚さは、観客に対しても相方に対しても、礼に始まり礼で終えていることで感じられる。
ここにみるものは、自分の芸の至らなさを自認し、観客や相方から学ぶべきものがあればなんでも受け入れようとする貪欲な態度を、失わないでいることである。
そのことを感じる典型が、芸の最後の態度や仕草に現れている。
それは、最後に誠心誠意で歌唱した楽曲に、込めらた思いの丈が果たされたことを感謝するかのように、布施明さんに対して「ありがとうございました」と云わんばかりに深々と頭を下げ、間髪を入れず、わずかばかり浮かべた笑顔の美しさを伴なって観客席へ同様の挨拶をしていることである。
このようなさまに見られるように、観客の心をつかむのは、歌唱の良さということだけではない。この誠意を尽くす芸にみる謙虚さも歌唱に劣らず魅する力を発揮している。
観客はこれによって、満足感が十分に充たされ心がまろやかなものになる。目つきまで穏やかなものに変わっていくのがよく分かる。

 そこで、島津亜矢さんの「芸域の広さ」は、楽曲の心を自分に取り込み、反芻(はんすう)して味わった上で、その味を芸の中に表現する努力によって、豊かな人間性が養われることから生まれていると言えよう。
このことを言い換えれば、その養った人間性から零(こぼ)れる真摯さ、誠実さ、謙虚さをバネにして、「魅力作り」という宿命を大切にする心得がより太く育ち、その心得に添える芸が磨かれていく、この過程が芸域の拡がりとなって感じるのであろう。
こうした「心」の循環によって生まれる芸が、「芸域の広さ」につながっているものと思われる。
 芸域の広さを楽曲の量、ジャンルの幅、歌唱時間の長短、リズムの種類等、表面上の現象から距離を置いた芸としたのは、こうした事情からである。その意味では「技芸の深さ」も同様であろう。


 年の瀬はめぐみを受けた田の神へ 
        こころを尽くす饗(あえ)のこと(祭)どき




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-②~「芸の魅力」⑮-②観客がもつ芸の「魅力」


 投稿者  安宅 関平

 世阿弥は、芸が芸として成り立つ条件のひとつに、「魅力」と「極める」の関係を説いている。
それは「魅力」と「極める」という二本の原糸が、芸人の手によって揉(も)まれ、撚(よ)られながら、芸という一本の紐になる。その紐が徐々に太くなり「真実の花」のある場所に至る道へ、誘導してくれる。それによって、徐々に芸が芸らしくなってくるとしている。
 しかし、このままでは、それはどのようなことかは理解しづらい。
そこでまず、「魅力」と「極める」との関係を探る前に、その関係を構成している「観客が芸に『魅力』を感じる」ことと、「芸人が芸を『極める』」ことの二点について、それぞれどのようなことなのかから探ってみたい。

 まず、本稿では、「観客が芸に『魅力』を感じる」ことについてみてみる。
 芸の「魅力」とは、観客が、劇場などで接した芸に深く感じ入り、心を動かされることを言う。
それは、簡単に言えば、芸の虜(とりこ)になることである。
観客が芸の虜(とりこ)になるほど芸に心を動かされるその要因は、芸風が「芸域の広さ」と「技芸の深さ」を伴って、芸を美しく見せ、大きく感じさせるところにある。

 では「芸域の広さ」とは、どのようなことであろうか。
芸域の広い芸とは、一人の芸人が質の違うイロイロな芸を見せてくれることである。いわば、それは七変化の芸かと思われる。
七変化の芸ほど芸風に幅広さを覚えることはないからである。
 それは布団の中綿が七重になっているようなものである。しかもその中綿を取り出して拡げると、色違いの綿が七枚もでてくる。その彩(いろど)りの豊かさと、広さは布団の七倍ものものになる。
この彩(いろど)りの豊かさと広さが、芸にふんわりとした厚みと拡がりをみせるのである。この厚みと拡がりが、観客のこころに豊かさと温かさを覚えさせ、何故か余裕の持てる幸せを感じるのである。
観客は、こうした余裕の幸せによって芸に心を信託するがごとき、いつしか芸に身を委ね、そこから受ける喜怒哀楽の情感の変化を楽しむのである。
七変化はその要(かなめ)を握っている。
そのためか、「芸域の広さ」を持つ芸人に接すたびに、七変化への期待が胸をよきる。そして心がときめく。そのときめきが七変化の中味の想像をかきたてる。すると心が弾む。この弾む心がときめき以上に楽しく幸せで美しい時間となる。この時間が芸から受ける感動に匹敵するほどの値打ちをみるのである。
そして、舞台から受ける芸が、期待通りのものであれば、それは美しい花に、数多(あまた)の蝶(ちょう)が群がる様(さま)に似た時の美しさであり、楽しさになるのである。
ここに芸域の広さが持つ魅力の良さがあるといってよいだろう。
これが芸の虜(とりこ)になるという意のことである。

 この場合、大事なのは、観客は芸人の芸自体に、非常な信頼を寄せていることである。それがなければ、芸域の広さの持つ魅力という現象は生じて来ない。器用さを感じるだけで終わってしまう。器用さには味はない。
ところで、信頼を寄せるその拠(よ)り所は、披露された芸に、積み重ねられている「努力の跡」をみることにある。
足袋の一足も買えない粒粒辛苦の耐乏活動に耐え、積み重ねた努力のその跡は、どのような風雪にも耐えられる強靭(きょうじん)さが、宿(やど)っていると感じられる魅力をみるからである。
七変化の芸は、そうしたしっかりとした基盤の上に成り立っているから、味があり信託力が強まるのである。
 では、こうした「芸域の広さ」を感じる具体的事例が、島津亜矢さんの舞台芸の中にあるかを、次稿において探してみたい。


 凛とした名前が響く寒鰤に ひらりと散るや雪の花びら




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-①~「芸の魅力」⑮-①

 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの歌唱を好む者は、昔を懐古しそこから零(こぼ)れる甘い密を吸うというよりも、今を生きる勇気と活力を養うサプリメントにしているのではないかと思われる。
それは、楽曲が島津亜矢さんの喉を通ると、泥流や流れの澱(よど)みが、清流に変わり勢いよく流れを速めるかのように感じられるからである。
この不思議さを探るための旅立ちが、「『芸を極める道』・その出発点」であった。
この旅は、2017年1月20日の投稿を皮切りにして、前稿までの64稿を重ねて探るものになった。
その結果で得たものは、島津亜矢さんの芸には人の望む「『寿福増長』『遐齢(かれい)延年』を増幅する働きをみるものがある」としたものであった。

 ところで、世阿弥は芸について、芸とは「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」に寄与するものでなければならないと説いている。
そのためには、芸に魅力を持たせ、それを表現する人格が必要であるとしていた。
その魅力と人格を基盤にして、「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」の芸を目指し、「芸を極める」ための茨(いばら)の芸道を歩きながら「秘すれば花」を蓄えていく。
「芸を極める」ことと、「秘すれば花」を蓄えることの手段に、「苦労と努力」が使われる。
その結果、行き着くところは「無」の世界である。
「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」の芸は、この「無の世界」の向こうに待っているというのである。

 そこで、世阿弥の説く芸道には、道しるべが必要であった。それは暗くて果てし無い茨道(いばらみち)だからである。
その道しるべは、新しい芸の創造にあると世阿弥は説いている。
つまりイノベーションの「新鮮」さが、芸の新基軸に通じ、それが「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」につながる。
この新基軸に通じる芸には、「芸を極める」と「秘すれば花」との関係が密接に係わっていた。
 ところが話を進めていくうちに、現在の荒んだ演歌・歌謡曲の芸能で、「芸を極める」と「秘すれば花」との関係をみるには、まずその見方に優先順位をつけて、順序を追ってみていくことが大切であった。それは遠回りにみえるが、核心を得るには近道だった。
 そこで順位の第一は、正常な「芸を極める道」とは、どのようなものかを知ることである。
それは芸に「利」と「欲」が絡むか否かの違いで、その芸質に異質性の大差がみられることであった。
 第二は、「芸を極める道」に踏み入れるとき、そこに何が必要かである。
そのひとつが、「魅力」と「人格」の二種類の要素であった。
その要素が芸に絡むトリック現象を見い出し、そこから、芸の命の基(もと)が何かを探ることであった。
以上が前稿までの、64稿の要旨である。

 続いて第三に来るものとして、「芸の魅力」と「芸を極める」の関係をみることである。
これについては、これから本稿より先ず「芸の魅力」を主題として今後15稿に亘って訪ねてみたい。
 

 暖かき小春日和に身がゆれて 吾れがこころは狂い咲くかな




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑩~「芸を極める道」・その出発点③-③ 日和見主義と審美眼 (下)



 投稿者  安宅 関平

 前稿において、大衆が芸能鑑賞の際に、美の本質をつかみ取る能力である審美眼を鍛え持つことは、芸の凋落を防ぎ、大衆自体の幸せにつながるとしたものであった。
その具体的効果について言えば、「芸の凋落」においては、一部の輩を「利」に走らせないことである。
また、芸人においては、「楽」より「苦」を選ぶことである。
それは、芸の本質である訴える能力を増すために必要なのである。
その必要を充たすには、切磋琢磨する競争原理の渦中に入ることが望ましい。その渦中で訴える能力という芸質の向上を図るのが、もっとも効果的なのである。
次に、「大衆の幸せにつながる」ことでは、芸質の向上によって世阿弥のいう「寿福増長」「遐齢延年」を増幅する働きが期待できるからである。

 では何故、審美眼がそのような変化をもたらすかである。
それは大衆が審美眼を持つことによって、芸人は見る人の嗜好にかなった芸をすることに主眼を置くからである。このことは、見る人を尊重することにつながるのである。
 この現象を、世阿弥は「衆人愛敬」という言葉で表現している。いわば衆人尊重論である。
世阿弥はさらに、芸人には「寿福達人の為手になれ」とも言っている。
それは衆人の寿福を、増長させられる芸人であれと云うことである。
これは、人間が求める最大の幸福は「長寿」とか「不老不死」であるが、芸にはそれを生み出す効用があるとする発想からきている。
こうした「衆人尊重論」とか「寿福達人論」においては、難解な芸を推奨してはいない。深みのある芸をせよといっているのである。
深みのある芸とは、平易な演技の中に陰(いん)に篭もった心が、伝わる芸を指している。それによって、芸に対して「貧しき眼」も「豊かな眼」も楽しませることができるとしたものである。
これが神仏を祭り、あらゆる人々に愛されるという芸の原点だと説いている。
大衆が審美眼を鍛え持つことが、このように、芸が原点に立ち返ることを意味しているのである。

 ところで、島津亜矢さんの芸には、芸人に対して求める大衆の審美眼の要求を大方消化した痕がみえる。そしてその痕からは、木霊(こだま)が帰ってくるかのように、大衆の審美眼を逆に育てる魅力が備わっている。しかもそこには、どのような権力にもぶれない芯があり、媚びない信念がある。
このような芸が、大衆の眼を肥やし育てるのである。
ここに「芸の正道」が正道である所以がある。
 「芸の正道」の魅力は、こうしたところまで及んでいる。
その意味では、島津亜矢さんはもっともっと芸に必要な自信を持つべきである。ただ、必要以上の自信は捨てるべきである。
その意味するところは、いつの時代でも島津亜矢さんが「今、歌いたい」と思われる歌を歌うことが大切たということにつながるのである。
本来、歌というものは自分が歌いたいと思われる歌が正道の芸になり、大衆を育て、世を正常化させる芸となるのである。それがしいては、芸能の最終目的である「寿福増長」「遐齢(かれい)延年」を大衆に与えることになるといえよう。
 島津亜矢さんの芸は、いまひとつの自信を持つことで、こうした芸能の最終目的の汀(みぎわ)まで達すると思われる。しかしその汀(みぎわ)への前には、深い谷と高い山がそびえている。基礎体力のない芸人の多くは、ここで芸人としての落命が待っている。
それは世阿弥のいう「心ざしのない技芸」と「極める技芸」・「極めた技芸」の違いがそこにあるからだろう。
その違いは「無」の境地の有無にある。その境地は、深い谷と高い山を乗り越えなけれは得られないものである。これを越えるには相当の努力と時間が必要かと思われる。しかし、この必要とする努力と時間の克服に関しては、島津亜矢さんの得意とするところである。自信を持つとは、このことを指すものである。

 ただ、しかし、島津亜矢さんの得意とすることに、最も必要なのはファンの支援である。それは、ファン以外に何のバックも無い芸人にとってファンの支援こそ、心強い味方であり、宝である。
何故なら、三越デパートの隣で、間口1間、奥行き2間の個人商店が商(あきな)いをしているようなものだからである。幸い、この個人商店の品質が三越より優れているために、幾らかの客の出入があり何とか生計は立てられている。
 ところで、品質が優れているためか、島津亜矢さんの回りに集まったファンは並外れて芸能鑑賞の質が高い。それは、芸を愛で、育てる人たちの集まりだからである。その意味では、島津亜矢さんを育ててきたのは、ファンだったのかも知れない。特に島津亜矢さんの二十歳代からのファンには重い石のような信念があった。それは素質のある芸人を、育てなければならいとした信念であった。
言葉を変えれば、このようにしてファンが作り上げたビッグスターは、島津亜矢さんが日本で初めてということになるかも知れない。
 ということは、島津亜矢さんに今後、深い谷と高い山を乗り越える芸の精進を求めるためには、その前にファン自身が審美眼を磨く精進が必要になってくるようである。
ところが、コアなファンにはこの精進をすることが、また楽しみなのである。何と世の中は、うまく出来ているようである。

 そこで、若い諸氏に伝えたいのは、演歌は嫌いだと感じられるのはそれはそれでよいとしても、上記によって演歌に芸の深さをみることには、異論はないものと思われる。この深さは芸能全般に共通したものであるからだ。
この共通したものを演歌が、中でも島津亜矢さんが、最も分かりやすく表現していると思われる。
どうか、諸氏においては、芸の深さをみるこの精進を積んでくれることを祈っている。それは己のためでもあると思う。


 柿の実を明日は取ろうと迷ううち からすにさらわれ秋は終れり