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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑨~「芸を極める道」・その出発点③-② 日和見主義と審美眼 (中)



 投稿者  安宅 関平

 さて、演歌・歌謡曲分野をむしばみ腐らせている具体的現象をみてみたい。
 その現象は、大衆の大多数がテレビ、ラジオ、新聞等のマスメディアの情報量に、物事の価値判断の多くを頼っていることの中にある。
それは芸能の鑑賞においても然りである。
その結果、特定の芸人が数多くテレビ画面に映し出されれば、いつしか見慣れ耳慣れし、「その芸人の存在に好感持つ」かのような錯覚に陥りやすい。そしていつしか、芸の価値観のすべてをその芸人に与えてしまう。いわば、好感度の高まりによるひずみ現象である。この場合、その価値は馴れから生じる価値であって、芸質の良き味から発生した価値ではない。それには価値観の質に相違が生じているはずである。
その典型は、連続テレビ小説のヒロインであり、そのテーマ音楽である。特にテーマ音楽においては、聞き始めた時は馴染めないものと感じていても、一ヶ月毎日聞いていると、いつしか馴染んで抵抗感がなくなる。そしてそれからまた一ヶ月すると、自然に口ずさむようになっている。こうした現実が、慣れにみる価値である。その具体例が古くは「おはなはん」であろう。
それは芸の良し悪しも然(さ)る事ながら、馴染むという現象が優先され、その現象によって芸の価値が形作られている。それが人気と見做される。そしてその人気が一人歩きする。
一人歩きするとは、芸の良し悪しに係わらず、慣れたものに群がりたくなる心理が大衆に働くことをいうのである。
この場合の大衆心理には、自身の意に沿わない場合でも時世の波という世間体(せけんてい)重視の観点から、いつしかそれを認め正当化することで満足することである。
しかし、そこには正義も正当性もない。ただ人並みにという安心感かあるだけである。この安心感で、世渡り術の平均値に自分を置くことで、心に平安をもたらそうとしているようである。
この現象は一種の日和見主義の弊害といっていい。こうした傾向が日本人には大なり小なりある。それは裏を返せば、マスコミに踊らされやすいことを意味している。
この仕組みを、「利」を得る族(やから)は利用したものである。それが業界をむしばみ、腐らせることにつながっているのであろう。

 では、それを防ぐには何が大切かである。
それは良し悪しを見極める大衆の審美眼である。「良いものはよい、悪いものは悪い」と見極められる判断力である。その上で更に大切なのは、その見極めが他の事態で動じないことである。
こうした審美眼があれば、「利」を得る族(やから)のたくらみが、よく見え、防げるのである。
このたくらみを防げれば、世でいう「芸を極める道」の険しさという言葉はなくなるであろう。そして、「ふつかり稽古」で養われたような底力のみなぎる芸が、業界の大勢をしめることになるであろう。
何故ならば、このたくらみが安易な「芸の楽」を出汁(だし)に、「芸を極める」道の厳しさを破壊しているからである。
では、「芸の楽」が「芸を極める」道の厳しさをどのように破壊してきているかである。
それは芸人に、質より量、美より利を重んじた芸を推奨し、大衆には美より利のある芸を積極的に宣伝していることである。それによって「利の芸」が「美の芸」を覆い隠しているのである。以前に採り上げた相撲の、あの「ふつかり稽古」と同様に、本来、「苦」をより多くなめることで「利」が得られるはずである。「楽」からは「利」は得られないはずが、このたくらみで逆転しているのである。
そこで、たくらみを防げれば、事態は元に戻ることになるはずである。それは「利の芸」が衰退し「美の芸」良さが復活するからである。
いわば、芸の修得には「ふつかり稽古」の苦が日常のこととなる。
このような「ふつかり稽古」の苦が日常の中で積み重ねられる芸道を、芸人が歩むことで、芸は海のように広く、山のように深く、野の花園のように馨(かくわ)しいという、広がりと深さと上品で優美さを備えた芸を、芸人も大衆も見い出すであろう。こうしたことのあふれる芸をみせる芸人が続出すれば、大衆も「良いものはよい、悪いものは悪い」との見極め出来る傾向に奔るだろう。これが美の本質をつかみ取る能力である審美眼の特質というものである。この審美眼が働けば「利」を得る族(やから)のたくらみを防げるのである。
その意味では、大衆に必要なこの審美眼は芸人を育てるたけでなく、大衆自身の利益にもつながるのである。


 日々来る気遣う嫁にこころ馳せ 「そなたのおかげ」と身を知る雨が
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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑨~「芸を極める道」・その出発点③-① 日和見主義と審美眼 (上)



 投稿者  安宅 関平

 現在の演歌・歌謡曲分野が、極端に大衆から見放され衰退の道をたどっている不正常な状態のなかで、正常な「秘すれば花」と「芸を極める」の関係の本質を、これまで70稿に渡って覗(のぞ)いてみた。
これによって、観客に媚(こび)を売って楽(らく)を買う芸人と、苦を買って芸を売る芸人の、どこで何に違いがあるかを、幾分か解することができたように思われる。
しかも、不正常な環境の中においても、正常な環境の中にあっても、競争原理の下で、技芸を切磋琢磨する「芸を極める道」を歩く芸人は、いかに歩みが遅く、辛抱・我慢を必要とするかをも知ることができた。
また、正統派と呼ばれる芸は、アメリカナイズされた結論だけを求める世相にも、これまた、いかに寄り添えないかを知る機会にもなったように思える。
ところがその反面、「芸を極める道」を歩く芸人の芸の質は、地道ではあるが決して後退することはなく、確実に前進して質の向上が図られるという特質を持っていることも分かった。
この質の向上については、年輪を増すごとに、あるいは増した分だけ芸が太く大きくなり凛々しく感じられる。この凛々しさに人心を射止める働きが増していることを実感するのである。
逆に、「芸を極める道」をはずして「楽」を求めた芸人においては、若いうちから年輪を増すほどに芸の衰えに甚(はなは)だしいものがある。そこに「楽」を求めた結果が現れるようである。

 にも関わらず、大衆はこの「楽」を求めた芸を受け入れている。これは、如何なることであろうか。
それは、大衆とマスコミの関係に、何かトリックが講じられているからである。
このトリックによって、「芸を極める道」を歩く芸人の芸質の特質が覆い隠され、媚(こび)を売る芸がもてはやされるという現代芸人の不正常な芸の状態を、大衆は正常な状態だと思い込まされているようである。
このことについては、マスコミを影で操り「利」を得る族(やから)の台頭があるのではないかと以前に書き添えたことがある。そこでは、そののさばりが、業界をむしばみ腐らせているとしか思えないとも付け加えたように記憶している。
 そこで次稿では、むしばみ腐らせている具体的現象と、それを防ぐ良き方法がないかを探ってみたい。


 純白の五弁の芯を黄に染め 落ち着き澄ます茶花に初雪




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑨~「芸を極める道」・その出発点⑧-⑧「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」にみる芸への愛(下)


 投稿者  安宅 関平

 「愛」により、苦を友とし努力を快楽として重ねた精進で、開(ひら)けて行く芸の道を歩むというこのことが、本来芸人が理想とする芸の創造形態である。
多くの芸人はこうした状況で芸の披露ができることを望んでいるものと思われる。
しかし、芸を愛するには、誠実さ必要である。
誠実さには、自分の良心の命じるままに動き、相手の気持や立場等をよく汲み取って、まじめに事に当ろうとする真剣さを要する。
その真剣さの中味は、誠意の塊(かたまり)である。
その誠意が、慈愛を生むという結果を招く。
この慈愛が、観客には一所懸命さに映るのである。
さらに、このようにして生まれた慈愛でなければ、「場」の「機」を見ることも、芸に自分が酔わないとすることも、さらに加えれば、「男時(おどき)」を招くこともできないのである。
 これらを「極める技芸」と云わずして何と呼べばよいだろう。
ただしかし、これはまだ、「極めた技芸」ではなく、あくまでも「極める技芸」であることに注意が必要である。
このあたりの過程を世阿弥が観れば、「まだ充分に満足出来る者ではない」とするだろう。
それは、この「極める技芸」は、正常な「芸を極める道」への出発点である。この時期の芸は、「魅力」と「人格」が絡んだ表裏一体のもを求めるものとなる。この求める芸の途中で生じるのが、トリックとその効果の現象である。だからそれは、芸として完成されたものではないと嗜(たしな)めることであろう。
 しかし、素人にはそのあたりは分からない。ただ、それはよい芸だとしか、言いようが無い。だが、よくよく考えてみると、前稿で採り上げた2017年10月29日の舞台では、果たした役割のスケール感の違いの要因は、「場の期をみる」技量から、「場の機を創りだそう」とする技量へと進歩の跡をみせている。この変化によって、品格を伴った存在感のある芸や舞台ができ上がっている。
しかし、こうしたことは素人には分かりづらいことである。何故、分かりづらいかは、芸を時系列的に追う機会がないことと、現在の芸のインパクトに捕らわれるからであろう。だから、結果だけをみることになり分かりづらいのである。そこで、それはよい芸としか言いようが無くなるのではないだろうか。

 このように、「芸を極める」ことのスタートラインは、芸の「魅力」を探り、人間性を養う「人格」を追い求めることである。これが、正常な芸能環境においては当然なのであり、自然なのである。
この自然と思われる「芸を極める道」の険しさは、想像以上のものがあるように思われる。ところが、その道を歩んでいる者にとっては、普通であって特別なものではないのかも知れない。むしろ、楽しいものなのかも知れない。
というのも、それは相撲でいう力士の「ブツカリ稽古」に似たもののようである。身体を砂まみれにし大息をつき相手に立ち向かう。そしてまた転がされ、起き上がれない状態になっていても、這いつくばって稽古を願い出る。この様子に似ている。こうして身体を痛めつけることが力士の稽古なのである。それを部外者が見れば、苦しそうで非情な仕打ちのように感じられる。だが、これが力士の足腰を鍛え、身体を作り、心の鍛錬となり、勝負に勝ち進んでいく基盤となっているのである。だからこの苦しさが普通なのであり、特別なものではないのである。
「芸を極める道」の険しさとは、これと同様なものかと思われる。

 本来、正常な芸能環境には、芸を極めるという目標ある。芸人はその目標に向って努力する。その努力が「ブツカリ稽古」のさまなのである。
しかし、不正常な芸能環境では、追い求めるものなどは必要としない。だからこうした厳しさも生じることはない。そのためか、現代芸人の多くは不正常な環境の道を選ぶ芸人が多いのはこのためである。それは楽だからである。ただその代わり、トリック効果など発生する余地はないということになる。ここが努力という稽古をした者と、そうでない者の差である。
素人目にはこの差がとのように映るかである。
それは稽古をした者の芸には抑制感がきいて、どっしりとした重みと深さのある芸に映るようである。だから飽きがこないでいつまでも新鮮なのである。
そうでない者のそれは、軽くて薄く感じるようである。その為が、すぐに飽きが来て、古びてしまうのである。

 さて、「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」の舞台を拝見して、ジャズバンド、姿月あさとさん、島津亜矢さんの三つ巴の戦いの迫力に接したことで、「芸とは何か」から「生きるとは何か」までを、改めて考える機会となった。
そう考えているうちに「極める技芸」においては、楽しさを求めることだけで満足していてよいのだろうかと思うようになり、娯楽のみに捉えることに限界を感じ始めている今日この頃である。
 そうしたことに拍車をかけるように、「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」で隣席だった姿月あさとファンの方から先日連絡をいただいた。
その内容は、来るこの(2017年11月)26日に大阪の大槻能楽堂で、姿月あさとさんが能楽師大槻祐一さんと「BORDERLESS」と銘打って歌や能舞でセッションされることから、参加のお誘いを受けのである。
これには驚いた。この2人の共通点は「芸」という一語でしかない。「歌と唄」、「踊りと舞」もあるにはあるが、それはすべて世界が違っている。そうした2人が何を求めて企画したのか、その冒険心に敬服している。
この当たりに島津亜矢さんを上回る魅力を感じるものがある。こうした冒険心こそ、芸を極める為には欠くことのできないものかも知れない。
その意味では、島津亜矢さんには現状に甘んじることなく、芸を極めることへの積極性は失わず、精進を重ねることを祈っている。


 五歳かな赤いおべべとカッボリと 千歳飴提げくぐるや鳥居




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑨~「芸を極める道」・その出発点⑧-⑦「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」にみる芸への愛(中)

 

投稿者  安宅 関平

 前稿に続いて、島津亜矢さんの芸に対する「愛」を追ってみたい。
 本稿においては、芸に対する「愛の形」ついて考えたいと思っている。
そこで過去の印象深い舞台芸を、2件ばかり採り上げてみる。
この2件の舞台芸では、芸の進歩した姿が鮮明に見られるからである。
それは、芸に対する「敬意」の変遷の中に現れている。
「敬意」とは「愛」の一種である。その「愛」をある芸人さんを媒体にして透かしてみると、その姿が分かりやすく見えて来る。

 その舞台芸の一つ目は、2009年3月15日、NHK放映の「BS日本の歌」での、北島三郎さんとの競演である。
この舞台で島津亜矢さんは、6曲披露している。そのすべてが歌そのものに「愛」の充実性を追い求めている。
「愛」の充実性とは、歌心が聴く者の心の底に届くことである。
そのためか、6曲すべてが「愛」のエナージーを感じさせるものであった。
中でも強く印象に残ったのは、北島三郎さんとの楽曲「まつり」のコラボレーション歌唱である。
それは、音階のキーを相手に合わせながらも見事にこなし、観客に感動を与えている。
そこに見られた「愛の形」は、精魂を込めた歌唱振りである。それは、自分の力のすべてを出し切り、歌い終った後は肩で息をつく始末である。その苦しさに顔をしかめながら、気を引き締め直して、しっかりと客席に一礼している。そこには、力の限りを尽くした後の満足感に似た快感の表情にも似たものがあった。そして最後に、「今日の日を有難うございました。本当に宝物です」と、こころからの謝意を北島三郎さんに対して述べている。
そのさまは、まるで幕下力士が稽古場で横綱に挑戦し、跳ね返された後の姿に似ていた。そしてそれは、嬉しさを胸に「ごっつあんでした」と一礼して土俵を降りるその姿とも重なるものだった。実に礼儀をわきまえた好感の持てる態度だった。
この舞台は島津亜矢さんにとって、一口で言えば「芸に対する愛」の表現の充実性を充たせた舞台だったようである。
 この時の北島三郎さんは、この若い闘志を一旦、胸でしっかりと受け止め、随分と力がついてきていることを実感している。それは芸に力が入った真剣さでよくわかる。
しかし、最後にいま少しの努力が必要だと、満面の笑みの中にも一瞬、跳ね返す如き眼差しをみせている。
あの眼差しは獅子が我が子を谷に突き落とす姿にも似ていた。この瞬間が横綱に跳ね返された幕下力士の場面とダブって見えたのである。
というのもこの時期の島津亜矢さんは、北島三郎さんと同じ舞台による競演の感激や、「愛」の充実性の披露に精一杯であったようである。
そのためか、歌は上手くは歌っていても歌芸に対する「愛」の一体感はいまひとつ不足の感がある。それは島津亜矢さんの「歌唱力」が卓越しているだけに、卓越した歌に対して「愛」がまだ伴なえず、遅れをとっているためだということを指すものであった。言葉を変えれば、思春期に生じる心と身体の不均衡な状態と同様の現象を北島三郎さんは芸の中に感じとっていたようである。この是正には、成長が先行している身体に見合う心を磨くしかないことを伝えたかったものと思われる。
素人目には素晴らしい芸として堪能しても、北島三郎さんはそのあたりを厳しく見ていたのである。そこには73歳とは言え、まだ往年の力量は充分に残っていた。

 その舞台芸の二つ目は、それから8年という時間の経過をみた2017年10月29日、谷から這い上がった島津亜矢さんの舞台姿である。
この舞台では、歌だけでなく舞台全体に対する「愛」の充実性を追い求めている。
それは、NHK放映の「新BS日本の歌」での北島三郎さんとの共演である。この舞台では3曲披露している。
この3曲とも、もはや以前とは違い、「芸に対する愛」の充実性と「歌唱力」が均衡の取れた芸になっていた。そのためか、力強い芸に無理と無駄がなくなり、力強さからくる刺々(とげとげ)しさが影を潜めている。その分だけ柔らかさが増し、やさしさに恵まれ、自然に心に残る歌唱へと変わっていた。
この変化こそ、芸の正道を歩む芸人の進歩の第一の証である。
ここで印象深かったのが、島津亜矢さんと北島三郎さん、それに大江裕さんを交えた3者での、楽曲「北の漁場」のコラボ披露である。
この芸は、谷へ落とされた獅子がたくましく成長して、谷から這い上がったその根性の真骨頂をみせるものであった。
それは精一杯の芸で、力の限りを尽くし肩で息つく場面は、以前と同様であったが、その息づかいは以前とは違う味をだしていた。
その違う味とは、表面上の舞台構成や形式上の所作等はさておき、観客や視聴者に北島三郎さんを中心とした芸を楽しませる主導的役割を、島津亜矢さんが担ったことである。
これは大変難しいことである。この難しさへの挑戦は、あの控えめな島津亜矢さんにしては、珍しいことである。
それというのも、体調を崩して1年2ヶ月ぶりの登壇となる北島三郎さんを気遣いながらも、北島三郎さんの芸風にふさわしい、力強さと華やかさを演出する舞台に努める意気込みは、凄まじい迫力をみせていた。この挑戦こそ、芸の正道を歩む芸人の進歩の第二の証である。

 これらの二つの証にみる前回との違いは、舞台で果たした役割のスケール感の違いである。
この違いの要因は、受動的な「場の期をみる」鋭さから、さらに踏み込んで、能動的な「場の機を創りだそう」とする技芸を身に付けようとしていることにある。そこに大きな余力が見い出される。まだこれは完成しているものではないが、これは大変高度な技芸で、人格の秀でた芸人の出す味の証ではないかと思われる。
 前回の2009年の舞台は、芸を上手に披露することに意義があった。そして舞台の主導権は北島三郎さんに預けられ、そこに島津亜矢さんの控えめの美徳の良さが出ていた。
だが、今回は島津亜矢さんが実質的に主導して芸を進め、舞台を盛り上げるものだった。そこには、無理なく、無駄もなく、情を前面に出しながらも立ち振る舞いも自然で、その役割を見事に勤め果たした。
 この時の北島三郎さんの眼差しは、「良くぞここまで這い上がって来たものだ。嬉しいぞ。この後(のち)の歌謡界は、精進するお前さんに任せたい」如きの、満足感にあふれるものであった。
この舞台では、島津亜矢さんは一口に言って、「愛」を以って魅せる舞台を創り上げたようである。
ということは、芸にたいする精一杯の取組み姿勢は変わらないながらも、その内容に「愛の形」の大きな変化をみたのである。

 またそれは奇せずして、そこに精進してたくましく成長し峠を登る者と、老いにかなわず峠を下る者の、現実の姿を見ることにもなった。
島津亜矢さんは、その現実を厳粛に受け止めていた。
それは、舞台を努めている様子に終始現れた。
その思いは、北島三郎さんの芸能活動が長く続くよう祈る気持や、まだ学びたいことが山ほどあるとの思い、それに、変わることのない尊崇の念などであろう。こうした思いはすべての場面の仕草や態度に滲んでいた。そしてそこには、一種の悲壮感に似たものまでが漂って感じられた。

 こうしたものを漂わせられるほどに芸の魅力の幅を広げた要因は何であろうか。
 それは、女性ながらも、日常生活の中に「義」や「情」を重んじていることにある。その姿が舞台の上に表れたのである。
言い換えれば、人格性の深さがつい、ほろりと出たのである。

 そこで、苦を友とするとか、努力を快楽に感じるとか、というところまで精進を重ねることで、芸の正道が開けてくる。
その正道の開けるところに芸が成長してゆく源がある。
その最も大切な基盤になっているのが、芸を愛することと、人を愛することであることを、この二つの舞台は物語っている。
 この二つの舞台に共通しているのは、この「愛」である。そして違っているのも「愛」である。2017年10月29日の舞台での「愛」には、2009年3月15日の舞台での「愛」よりも広がりと深さがある。この「愛」の広さと深さは、谷から這い上がったたくましさによって得たものである。
この二つの舞台は、北島三郎さんの影を透かしてみると、成長してゆく島津亜矢さんの「愛の形」をみる最もふさわしい事例だろう。


 せせらぎの流れのなかの山紅葉 眠り近づく裾野粧(よそお)う




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑧-⑥「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」にみる芸への愛(上)



 投稿者  安宅 関平

 さて、島津亜矢さんの「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」におけるどのあたりの芸が、「極める技芸」の楽しさを更に増すものだったかを追ってみたい。

 島津亜矢さんは、「場の機」を見る一瞬の「敏」と、自分の芸には酔わない「芯の強さ」を再三見せていた。さらに、舞台の隅々にまで緊張感と真剣さを漂わせて、一所懸命に努める姿の美しさがそこにあった。
この姿勢は、姿月あさとさんやジャズバンドの構成メンバーをも刺激したのか、舞台全体を「凛」と引き締めたものにしていた。
 ところで、島津亜矢さんのこうした舞台姿勢は、どうも本人の無意識の内に、自然となされているようである。こうしたところは、永年コンサート会場を芸の修羅場として心掛けてきた精進の賜物かと思われる。
 さらに注目したいのは、こうした異種バージョンのコンサートには、多くのことが大変新鮮に映る魅力があることである。相手が同種の演歌芸人ではこうした魅力は生まれないだろうし、また、コンサートのセットリストにあった楽曲全曲を1人で披露したとしても、その魅力は違ったものになっていただろう。
 「凛」とした新鮮さの第一は、宝塚レビューの流れを持する姿月あさとさんと演歌育ちの島津亜矢さんの、2人が主役であったことである。この2人の主役の芸質の違いが、真剣さと緊張感と鮮やかなメリハリを生み、「凛」とした舞台を創り出したことである。そして、2人はその中で美しく映えたのである。
その第二は、互いが真剣に学びあう心得で戦っていることから、そこに新鮮さが醸成されていたのである。それは、互いの洗練された歌唱に学びあう心得から来る刺激が強く加わり、芸がより艶やかな輝きをみせたことから舞台が「凛」としたひかりを放ったのであろう。
このあたりは、島津亜矢さんの全国ツアーコンサートでは、感じられない魅力を刺激した美しさがあった。

 ところでこうした結果は、島津亜矢さんの芸に対する取組姿勢に由来しているように思われる。
 それは、常に正面から芸と四つに組み、そこに生じる苦楽と対峙する構えで芸に挑む姿勢にある。
苦しくて具合が悪いと、いつでも逃げられる半身の構えの芸では、決してこのような結果は得られないものと思われる。
ここが、正統派芸の魅力を観客が感じるところであるが、芸人にとっては苦しさが倍加するところでもある。

 では、その取組み姿勢とは具体的にどのようなものだったかである。
それは観ていると、正面から芸とがっぷり四つに組み、逃げ場のない環境を創っていることである。それによって常に真剣に取組まざるを得ない状態に自分を追い込んでいるのである。
言葉を変えれば、幾ら苦しくとも芸を手抜きのできない状態にしていることである。こうしたことを、一般的に「苦を買う」というのだろう。
ただ、芸に対して、こうした姿勢を30年も続けていれば、それは日常化し普通のこととなる。
そこには微塵も「苦」に対する抵抗感は生じなくなっているものと思われる。むしろ、「苦」を友としているから、「苦」が楽しいのである。これは前にも述べた努力を快楽とすることに似ている。
これだから、いかなる舞台でも勤め上げられるだろうし、今回のような異種バージョンのコンサートでも魅力を発揮できたのである。

 ここに芸が日々成長してゆく源(みなもと)がある。この源は、芸の正道を歩む者にしか手にすることは出来ないものである。
こうした芸の正道を歩めむ姿勢の原点は、芸を愛することである。
というのも、芸に対する愛がなければ続けられないことだからである。
 こうした一連の現象がみられる代表的舞台芸がある。それについては次稿で採り上げてみたい。


 不思議やとまばたきもせず我を見る
             親に抱かれたつぶらな瞳




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑧-⑤「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」 楽曲「漁歌」の歌唱 



 投稿者  安宅 関平

 さて、「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」での「漁歌」の歌唱振りについてである。
これは、バックのジャズバンドに乗って、時化(しけ)のなかを奔(はし)る漁船のごとく、会場そのものが揺れ動いた。なかには、リズムの良さに船酔いするかと思われる観客や、歌唱の心地良さに度肝を抜かれる観客、歌声の美しさが胸を突く感動に、酔いしれている観客もいた。
 ところで、この「漁歌」のメロディーが、これほどまでにジャズバンドに合うとは、誰が予想したであろうか。
最も、今回の島津亜矢さんの歌唱振りは、理性を欠くが如きジャズバンドに対応したものであったことは注視する必要がある。それは、バンドにすっかり乗せられ、バンドの音色に陶酔した歌唱振りかと感じられる面を見せていたからである。
一方で、バンドの方も島津亜矢さんの歌唱の上手さを、より幅広く引き立てる演奏振りだったことは見逃せない。言い換えれば、理性を欠くが如きに聴こえた演奏というのは、島津亜矢さんの歌声に驚きと脅威を感じ、それに負けじとする意気込みが、窺(うかが)われるものだったことである。
それは、メロディーに乗った楽器の音色(ねいろ)に、奏者の感情の高ぶりの激しさが勢いを増しながら、ひしひしと伝わってきたからである。
この現象は、今回のジャズバンド特有の楽器の原始音の効果が発揮され、聴く者の胸をビンビンと打ち鳴らした。これには、音楽が充分解からないこの素人をも、うっとりとさせるものがあった。
今思うと、それは歌い手の歌声とバンドの楽器音が、絶妙に調和の取れたものだったからだろうと思われる。
 もっとも、島津亜矢さんの芸には楽器や楽団、コーラスなどを充分に生かしながら歌唱する技芸が伴われていることから、それを聴く観客には必然的に調和の取れた音楽となって味わえる良さがある。
その要因は歌い手の基礎であるリズム感の良さと、安定した音程にある。この正確なリズム感によって、楽器奏者や楽団、コーラスメンバーらは島津亜矢さんとリズムが合わせやすいようである。どの歌唱を耳にしても楽団やコーラスとのリズムはピタリと常に一致した一枚岩になっている。
こうしたことは、歌唱の「間」や「タメ」をどこに置くのか、音の「強弱」はどこなのかの意思の疎通が図られやすく、このあたりに楽器や楽団、コーラスの良さが生かされる要因になっているようである。それに安定した音程が加えられるから、音楽の美しさが一段とした輝きを放つのである。
あの高音の歌声が心地よく、美しく冴え渡って聞こえるのも、また、専門家でも難しいと言う「I CAN’T DO ANYTHING-宇宙よ-」の楽曲の歌唱に例えれば、それは素人にも簡単に馴染めて理解しやすく、温かく聴こえるのは、この輝きが放つ所為である。
 ところで、島津亜矢さんの歌声とバンドのメロディーが、激情に駆られたごときの火花を散らす戦いは見事であった。コンサート会場が揺れて感じるのに無理はなかったのである。そこに醸(かも)しだす迫力というか、力強さというか、異質なものの調和の魅力というか、それはすごみのある芸で、演奏者の音色と島津亜矢さんの歌声のどちらも負けじと競いあう気迫のこもった力と力の戦いは、聴く者の肌を突き刺した。
隣の座席におられた四十代の宝塚ファンのご婦人は、その感動に何度も落涙していた。
そして、「『漁歌』の楽曲をこのように聞かせてくれると、作詞の山田孝雄氏や作曲の浜圭介氏もご満悦だろう」と涙声で話されていた。あの会場ではそうした心境はよく理解できた。ただ、この一言をなるほどと思いながら、このご婦人は演歌にも造詣が深いとお見受けしてその言葉を敬聴した。
 この時に、世阿弥のいう「無」の芸は、このご婦人の涙声のなかにあるのではないかと、ふと思ったことである。
そして観客がこの芸から受けた「無」の境地は、舞台中央の島津亜矢さんだけではなく、バンドや他のスタッフをも含めた舞台全体にその広がりをもって感じられた。
そのためか、観客は、染まったその「無」の境地に、気が動転するほどの感動を覚えたのである。単に楽しめばよいはずの音楽会なのに、そこには、軽薄なザワつきやふわつきのない、心の芯から音楽を親しみ敬愛する雰囲気に包まれるものがあった。それは楽しみ方の質の違いである。
これを気品のある音楽鑑賞というのであろう。それもそのはず、観客はそれほどまでに、充実した舞台内容の芸に魅了されていたのである。
それに全体として、島津亜矢さんの本来持っている明るさの特徴が加わる一方で、観客を酔わせるだけの芯のある芸であったことが、より印象深く感じさせたのかも知れない。
これが「漁歌」歌唱の内容である。

 一方、姿月あさとさんの宝塚バリューはさすがである。舞台芸能に疎(うと)い愚者でも、上品な菓子に薄荷(ハッカ)のような隠し味の刺激を感じる独特のよさが、宝塚芸術にあることだけはよく解かった。しかも、戦っている演歌・歌謡曲に、宝塚芸術バリューを寄り添わせてみせる姿勢には心打たれるものがあった。だが、お隣の婦人はこの辺りがお気に召さなかったようである。
 それにしても、あの気品と華麗さはとこから出てくるのであろうか。
これは和風でも洋風でもない、宝塚風という特質の味や香りである。当初は、この味や香りは、クラッシック音楽やオペラの味に近いかと想像していたが、全く別の味であった。
だが、あえてクラッシック音楽の味に例えれば、モーツアルトの優しさとべートベンの力強さが入り混じったような感じである。しかも、クラッシックにおいてその感じは間接的に感じるが、宝塚の柔らかさと硬質感はストレートに感じられる。それがどんどんと、聴く者の胸をたたきにくるのである。
この味はまるで雲の上に存在する味で、今後、機会があればこの宝塚芸術をほぐさないといけないだろう。いつかはそれに挑戦したいという探究心に駆られるほど魅せられるものを感じた。
これは隣席にいた「姿月あさとファン」の影響もある。
 以上が「姿月あさと」さんのデュオコンサートでの感想である。

 これまでが「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」の異種芸間だからこそ味わえた芸の美しさと、覚えた感動の箱詰めにしたい芸の内容である。
では、この舞台のどのようなところが、「極める技芸」のその楽しさを更に増すもう一つの事例となるかを、次稿で採り上げてみたい。


 樫の木のどんぐりぽとりぽとぽとり 
               狭庭で木登りわんぱく小僧