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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑧-④「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」 三つ巴のバトル(下)



 投稿者  安宅 関平

 披露する芸の中から感じられた、バトルを生んだその「心得」と「効果」の、印象の続きである。

 その三件目に該当するある者は、努力と精進という修行を一人でやりきれば、自分に自信が持てるかも知れないと考えたことが、きっかけだったようだ。
その結果、まず成し得たのは、苦しい時にしんどい顔はせず、苦しい時こそ笑顔でいられるようになったことである。その変化が、芸を成す事につきものの努力と精進を、苦にせずして自信を持って受け入れ、その苦を楽しめるようになった。この苦を楽しむ「心」を、自分の宝にしているようである。
 実際にこうして採り上げた例は、的を得ているかわからないが、芸から受けた三者の印象はこのようなものであった。

 ところで、このように自分を変えるためのきっかけは、凡人でもよく生じることがある。だが、凡人では実際に自分が変われることは実に希である。今回の舞台に立っている三者は、それを成し遂げている。言い換えれば、人間が一皮むけて成長しているのである。
 それは三者の戦い方でよく分かる。何故なら戦い方が純情ではないからだ。と云う風に言えば、三者はそれぞれが底意地の悪いように聞こえるが、さにあらず。それとは逆である。
戦いは実に温かい。柔らかく、温もりにあふれ、何故かその席にいると居心地がよい。
というのも、一皮むけた芸人の芸は、がっぷりと四つに組むと、そこには古城の天守閣を見るときのように、バランスのとれた美しさがある。
その美しさとは、芸の領域の違いを互いに引き出しあいなから競い合うところである。
そのため、各領域の良さが明確で分かりやすい。分かりやすければ、比較しやすくなる。比較することでそれぞれの芸の良さを存分に楽しめる。
これが、芸人の戦いの本質でなければならない。
三者は戦い方を熟知しているとしたのは、このように戦いの本質を心得ていることを指すものである。
 しかし、それには緊張感が必要である。緊張感はこの本質を見定めるために必要なのである。今回の会場に、終始緊張感が走っていたのはこのためである。これによって異種芸間の美しさを感じ、感動を覚えるのである。
その結果として、箱詰めにしたい芸が生まれるのである。

 さて、なかでも島津亜矢さんについては、箱詰めしたいものが山ほどあった。それを一つに絞って言えば、「漁歌」の歌唱である。
これについては、次稿に譲りたい。


 細き枝にしがみつくよなもみじ葉に
                別れ促がすこの片時雨




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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑧-③「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」  三つ巴のバトル(中)

 

投稿者  安宅 関平

 このジョイントコンサートは、姿月あさとさんと島津亜矢さん、それにジャズバンドの三者の絡みあいが、まことにジョイント(連合)にふさわしいバトルを発揮した。
それは一級の芸術品であった。これが芸術品というのは、バトルによって生じた歌声が楽器音を伴って聴く者の渇いた心を、慈愛で充たしてくれるものであったからである。この芸術品を箱詰めできなかったのは至極残念だった。
 ところでその箱詰についてであるが、島津亜矢さんの芸においては従来よりこうした衝動の起きることが多々あった。
今回のジョイントコンサートの舞台でも、その現象は例外なく起きた。
また加えて、このコンサートでの芸術品箱詰め衝動現象が、姿月あさとさんやバックバンドのメンバーをも刺激したのか、あるいはもともと持っていた潜在能力が揺り動かされたのか、そのいずれかと思われるような魅せられる芸が、この両者の中にも随所にみられた。
それもそのはず、この三者はこれまで30年間以上それぞれの分野の中で、熾烈な生存競争を戦い抜いたうえで、今では一つの理念に沿った芸人としての今日がある人たちである。
それだけに、互いによい芸を吸収する能力や発揮する能力に長けたものを持ち合わせている。しかも、戦うことも熟知している。そうした互いの個々の持ち味が芸を芸術品に仕立てているのであろう。

 さて、アッパレ感の感動の要因である芸のバトルについて今まで追ってきたが、ここからはもうひとつの課題であるそのバトルを生んだ三者の芸に対する「心得」とその「効用」について探ってみたい。
ここで言う「心得」とは、芸事の細かい事情などを飲み込んで、それに対処することである。「効用」とは、その「心得」によって発揮される効果を指すものである。
 そこで、戦いを熟知した三者が、バトルした芸の「心得」とはとのようなものなのかを知りたい。何故ならば、その心得が芸術的アッパレ感に通じていると読み取れるからである。というのも今回は、ほとんどぶっつけ本番に近い形で、公演が行われたと聞いたからである。
そこで舞台の中から推測できる「心得」とは、芸人の心が芸に乗り移れるように、自分を変えたいとする思いが映し出されたことである。そして、そのための努力は惜しまないようである。だが、それは三者三様で純情なものではない。
しかし、その「心得」の結果は三者とも、同質で同レベルの芸の表現にみえた。どこが同質かといえば、それはいかなることにもひるむことなく努力と精進で、新しい芸に対して意気込み立ち向かう姿である。
その姿を見ると、ここへ来るまでにどれほどの苦悩や苦労、努力を重ねてきたことであろうことが窺(うかが)える。
だが多分、この三者はこうした窺(うかが)えた過去のことは、すべて芸を志す者の修行であることに気付いている。そしてこの修行によって、自分を変えてきたのである。
ただ、その変え方にはそれぞれに違いがあった。その違いも個性となって芸に現れていた。
 その違いは、修行で自分が変わろうとしたきっかけである。
そのきっかけは環境や経験値などの違いからさまざまである。だが、その様々なきっかけによって自分の心情を変化させた三者の芸は、結果として同種類で同質の芸の魅力を培っていたことは上記の通りである。
この同種同質の芸でありながら、感じられる個性とはどのようなものかである。
それは流れ下る水流を見るようなものである。
水は上から下へ流れ落ちる。これは同質である。しかし、上流、中流、下流の場所によって流れの表情は変化する。これが個性である。
 そこで三者の芸から感じられた「心得」とその「効果」の印象を具体的に挙げてみたい。
三者の中の一人は、人が負う苦労は修行だと考えているから、芸に向かう努力と精進の苦も、修行として受け止めている。
それによって苦の現実からは目を背くことなく、それと戦い抜く覚悟を持てたことが、自分を変えるきっかけとなったようである。
そしてその結果、数多の苦労を乗り越え一生懸命に頑張ってきたこの「心」だけは、自分の宝だと思っている。これが心得である。
この宝を得たことで、自分の進む道は苦の中にあるとして、そこを自分の足で自信を持って歩いて行けるようになりたいと思うように変わってきたようである。これは効果である。
 また別のある者は、芸が行き詰まろうとしたことは、何事も自己中心だったことを自戒し、こうした自分を変えたいというこれまでにない思いが、背中を押したことであった。それがきっかけとなって、自分を変えるための苦行を受け入れたのであろう。
そしてその苦行を積んだ結果、これまで感じたことのなかった人に感謝する心が芽ばえたようである。そして、心底から感謝が湧き上がることの楽しさを覚え、それを大切にしている。これが心得である。
それを覚えてからは、毎日が自己中心の悪癖と感謝の湧く努力との戦いであるが、これが修行だと感じるようになってから、この修行の中に存在する自分を変えようと努力する気持が、周りの人達を温かく受け入れられるようになった。これが効果である。

 さて、 上記の二件は、披露する芸の中から感じられたバトルを生んだ「心得」とその「効果」の印象である。
その芸は、温もりにあふれ、慈愛が心を充たしていく現象が観客自身はっきりと自分で自覚できる芸であった。これこそ、修行によって自分を変えた芸人の、結果としての成果なのであろう。
だが、もう一件、印象に残っているものがある。それについは次稿に譲りたい。


 窓あかりはた織り虫の近づきに
          稚女(ちご)のこっそり開ける障子戸




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑧-②「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」 三つ巴のバトル(上)



 投稿者  安宅 関平

 このように真剣で行われるもののそこには、実に美しい感動がある。
しかも、この緊張感の異常さの中で三者は平然と芸をこなし、やり過ごすから、感動がより強く感じらる。そしてそこには、無理がなく、むだがなく、スキがなく、媚(こ)びがない。あるのは、競(きそ)うことの清々しさだけであった。終演時には、つい「アッパレ !」と心の中で叫びたいような気がした。

 そのアッパレ感の感動は、芸のバトルから生まれており、その感動のバトルを生むのは芸に対する心得にあった。そのあたりを追ってみたい。

 まず、バトルである。
 それは邦楽寄りの演歌の世界に、洋楽寄りの宝塚気質の強風が、竜巻のごときに吹きつけて襲い掛かり、演歌の身を粉々にするかのようなさまをみせていた。
 一方で、洋楽寄りの宝塚声楽はというと、演歌の波濤を覆(おお)い被(かぶ)り全身水浸しになりながら、その破壊力におびえ、恐怖に震え、身を縮めて必死に耐えるというようなさまをみるものであった。
だが、それが語り尽くせない美しさであった。
このように、風と波の戦いの凄まじさと迫力は、この世のものではない上に、さらにそれに拍車をかけるのが、バックのジャズバンドであった。

 ジャズバンドは、演歌に対しても宝塚バリューに対しても、2体の人形の操(あやつ)り糸を手中に収め、憚(はばか)ることなくお尻をたたくごとくに、両者の士気を鼓舞する演奏を披露した。観客はそれにも酔いしれた。
 というのも、このバンドの楽器演奏は、素焼きの器を手に取っているような感触であったからであろう。
素焼きの器とは、それは奏でる音に飾りものは何一つなかったからである。もちろん釉薬もかかっていない。そのシンプルさに、何故か、あか抜けしたスマートさの魅力があった。
こうした飾りのない音こそ、楽器本来の音色の美しさだと思えるものであった。
何故かといえば、人間が楽器を奏でる時、その経験年数に応じて、種々の技術やテクニックを手に入れている。奏者はそれを武器に演奏する。聴く者はその技術やテクニックよって、演奏を評価する。それはそれでまた、正当な楽しみ方でもある。
しかし、このたびのバンドは、そうした鑑賞方法は通じないもののようであった。そうしたことを超越し、楽器演奏の原点に返り楽器の出す音の本質が生かされたもののようであった。言い換えれば、楽器の原始音を生かして奏でたもののように感じたのである。
というのも、素焼きは地味な色ではあるが、保水性、透過性という特徴があるように、このバンドは舞台では歌い手の後方に位置し目立たないながらも、歌声を保水性をもって艶やかに包み込み、奏でる音に透過性が発揮され観客の心を洗うように、身体の中を通り抜けていく感じであった。ここに卓越した音の神が寄り添っているかのようでもあった。

 こうしたバンドにしろ、歌唱する2人の歌声にしろ、また、その三者の絡み合うバトルは芸術品であった。
ここでいう芸術品とは、楽曲の訴えたい内容が聴く者の心に響き渡り、よく理解されることである。
理解されるとは、歌い手の側からみると、歌声が言葉と楽器音を伴って、聴く者の渇いた心を慈愛で充たしていく現象である。この現象によって、観客のこころが弾んでくる。こころが弾めば、前向きの思考力が働き、「寿福増長(長寿と幸福の増大)」「遐齢延年(長生き)」に結びつく。
 これを、箱詰めにして持ち帰れないのがとても残念な気がした。


 椎の実を二つ拾いて誇り顔 むかしなつかし鎮守の森で




幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑧~「芸を極める道」・その出発点⑧-①「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」 競う芸は神の芸



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの芸の魅力は、聴く者の心をサラリと洗ってくれるところにある。
この不思議さは、どこから来るものであろうか。
それは、芸に新基軸を呼び込む新しい芸の創造が、含まれているいるからであろう。それが芸に新鮮さを感じさせているのである。
今現在の島津亜矢さんは、これが「秘すれば花」になっている。
そして、この「秘すれば花」の命は、正面から見ると芸能とは何か、技芸とは何かを探り求めているところにある。この命がまた、「芸を極める道」に通じてもいる。
そして、その道に映る後ろ影には、豊かな人間性の柱である「人格」と、芸の基盤である「魅力」を追い求める健気な姿の美しさがある。

 ところで、島津亜矢さんの芸を極めようと努力するその健気さから発せらる芸術的シグナルとして、人々を魅了させるものが二つある。
その一つは、「秘すれば花」を引き立てる内堀と外堀の芸である。
そしてその二つは、イノベーションに通じる芸への「挑戦」と、その「努力」する姿である。
中でも努力と精進で、ひるまず新しい芸に意気込んで立ち向かう姿の美しさには表現する言葉はない。
それは芸を極めようとする姿勢を、人前にさらす姿の美しさだからである。
だが、この姿勢が何故美しく感じるかである。それは芸の目的である祈願することが、神に良く伝わる目標に叶っているからであろう。人が神に携わる折の美しさには、言葉で表現できないものがある。

 島津亜矢さんのこうした芸の美しさは、コンサートや歌謡ショーなどで単に芸を披露する場面よりも、披露する芸を競う場面のときに非常によく発揮され、観客を魅了させている。
 NHKはこのあたりを充分承知してか、歌番組においては北島三郎さん、布施明さん、秋川雅史さん等に挑戦させている。また、名人戦等と称して3、4人のメンバーを揃えて競わせてもいた。そのいずれの舞台も高い評価と好評を博するものが多かったように思える。

 こうした競う舞台の延長線上に、2016年2月28、29日、EXシアター六本木(東京・西麻布)で開催された「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」がある。
これは歌唱芸を競い合う芸としては、今までにない壮絶な部類のものであった。
このコンサートでは、下記に挙げたコンサートのセットリストにあるように、この舞台で初披露する楽曲は見当たらなかったように思えた。にもかかわらず、種々の魅力を見せつける舞台になっていた。
それは、演歌のほか、洋楽やPOPS、ミュージカルまで、多様なジャンルに果敢に挑戦するものであったからだろう。
ただ、この挑戦も、従来同様に肥後の風土に育(はぐく)まれた「努力する魅力」の延長線上のものであったが、従来と若干違うのは、相手が宝塚という異質の芸域とのバトルだったことである。ここのところに大きな意義と期待があった。
そうした意味からか、島津亜矢さんの心構えも何か少し違って感じられた。
また同時に、「姿月あさと」さんの宝塚流における演歌・歌謡曲への挑戦には驚いた。バックのジャズバンドも、演歌や歌謡曲のほか多種多様な楽曲に挑戦するものであったことも楽しめた。
ということは、それぞれがお家芸分野以外の芸に挑戦することへの興味深さがあった。更に特筆したいのは、「姿月あさと」さんと「島津亜矢」さんと「ジャズバンド」奏者の皆さんの三者が、三つ巴になって、互いに競い合う芸の披露でもあった。
そのためか、それはきわめて真剣で、見応え・聴き応えのあるものだったが、前宣伝にあった「贅沢な時間と空間」などというような悠長なものではなかった。緊張感のみなぎった会場は、観客が舞台から受ける感動に言葉を失ない、何度も静寂を招くほどのものたった。このことを前宣伝で「贅沢」という言葉で表現していたのかも知れない。
というのも、それは芸事に疎(うと)い人間には、次元の違う世界を体験していると思わせるほどの、異常な雰囲気の魅力を持つものだったことである。ところがこの異常さは、実に柔らかく、温もりにあふれたもので、何故か居心地のよいものであった。


 巣ごもりの支度終われどこの暑さ 
               隠れ戸ふさげず惑う虫の身





<参考> 「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」のセットリスト

   ◇一幕

 ワインレッドのこころ       
                              姿月あさと 島津亜矢
 I WILL ALLWAYS LAVE YOU
                              島津亜矢
 ジェラシー
                              姿月あさと
 帰らんちゃよか           
                              島津亜矢
 聖母たちのララバイ        
                              島津亜矢
 MY WEY 
                              島津亜矢
 天城越え               
                              姿月あさと
 桃色吐息               
                              姿月あさと
 山河                  
                              島津亜矢
 悲しい酒               
                              島津亜矢
 愛燦燦                
                              姿月あさと
 夜桜お七               
                              姿月あさと
 見上げてごらん夜の星を    
                              姿月あさと 島津亜矢

   ◇二幕

 なぎさのシンドバッド        
                              姿月あさと 島津亜矢
 セクシー貴方はセクシー     
                              姿月あさと 島津亜矢
 水色の雨              
                              姿月あさと
 時の流れに身をまかせ      
                              姿月あさと
 夜桜挽歌               
                              島津亜矢
 感謝状~母へのメッセージ~  
                              島津亜矢
 カサブランカ・ダンディ       
                              姿月あさと
 メリー・ジェーン           
                              島津亜矢
 Mr.サマータイム          
                              島津亜矢
 難破船                
                              姿月あさと
 かもめが飛んだ日         
                              島津亜矢
 LOVE IS OVER         
                              姿月あさと
 なごり雪                
                              島津亜矢
 ナオミの夢              
                              姿月あさと
 糸                  
                              島津亜矢
 いとしのエリー           
                              姿月あさと
 ダンシング・オールナイト    
                              島津亜矢
 飾りじゃないのよ涙は      
                              姿月あさと 島津亜矢
 漁歌                 
                              島津亜矢
 夜明け                
                              姿月あさと
 黄昏のビギン           
                              姿月あさと 島津亜矢
 アナと雪の女王          
                              島津亜矢

  デュエット 姿月あさと 島津亜矢    
                              6曲
  ソロ     島津亜矢           
                             16曲
  ソロ     姿月あさと           
                             13曲
                            
          計
                             35曲


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑦-②~「芸を極める道」・その出発点⑬-⑬2015年の紅白 「男時」と「飾りのない感動」



 投稿者  安宅 関平

 芸の本来の目的は、人間が自分たちの思いを神に祈願することにある。
この祈願の手段が芸である。手段には他に、祭壇の設(しつら)えがあり、供え物があり、衣装などもある。中でも芸事は祝詞(のりと)や舞を伴った人の動作や行動が主体になっている。この動作や行動は、祭壇や供え物、衣装等のように形として残らず、それらはすべてが一瞬一瞬に消える性格を持っている。
そのためか、この瞬時に消え去る芸事においては、芸を通した願い事は、印象を強くして神によく伝わることが最重要となる。こうしたことから、芸事の中でもより良く伝わる芸が重要視され、芸の目標はそこに置かれることとなっていた。こうしたことによって、芸の目的は達せると思われているからである。島津亜矢さんの芸で他の芸人さんと違うところは、若い時分から忠実にその領域の原点を、達成していたことである。

そこで、歌唱芸の本質は、芸の目的を達することにある。
そのために、古来より色々な工夫と手法が編み出されてきている。リズムを早くしたり緩くしたり、声や楽器の音量を大きくしたり小さくしたり、歌調を明るくしたり暗くしたり、中には身体を使って飛んだり跳ねもしたりしてきた。しかしそれらは、初めは興味をそそるものであったが、わずかな期間で厭(あ)きられることが多かった。
そうした中で、一種類の芸だけ例外があった。
それは心の込められた芸である。この芸だけは、どのような理屈や理論をもってしても、それを越えて伝わるものがあった。そのためか、古来より編み出された色々な工夫と手法の中で、この心の込められた技芸だけが常に残ったのである。

では何故これだけが残ったかである。それには理由があった。
思いを伝えるには、誠意を以って真剣に訴える以外に道はないからである。思いを伝えるため、従来より芸にはいろいろな工夫や努力がなされた。しかし、そのいずれもが誠意という力には及ばなかったのである。
神は誠意にだけ、微笑を送ったのである。
それによって芸の真意が伝わることが分かった。真意が伝われば、神はほくそ笑んでくれる。神がほくそ笑めば、そこに平和が訪れるのである。
そして、その瞬間から、芸は芸術に変わる。
芸が芸術に変わると、世阿弥のいう「寿福増長(長寿と幸福の増大)」「遐齢延年(長生き)」の効用が生じるといえる。

 島津亜矢さんの芸において、その効用がついに表面化した事例がある。
それは2017年9月24日、熊本県阿蘇市でのNHKのど自慢においてである。のど自慢に合格した娘さんが合格の感涙のなか、尊崇(そんすう)する島津亜矢さんに「島津さんは村山家のひかりです」と伝えるシーンである。
これには驚きと、感動を覚えた。
それは島津亜矢さんの芸の存在が、家庭のなかの一人の個人に留まらず家族のすべてに波及し、一家の幸福の増大に寄与する影響を与えているという証だからである。そしてそれが言葉で公言されたことである。百戦練磨の島津亜矢さんも、この芸の影響力と芸を理解した人の心の純粋さに、言葉を失っている。

 ところで島津亜矢さんの幼少期に口ずさんだ芸が、このようにして太く大きくなれたその基盤には、3歳時からの努力する習慣がついていたことにある。ただ、その努力する習慣を支えたのは、親愛なる身内であり、ファンである。
特にファンについて言えば、それは芯に鋼(はがね)を持つ筋金いりである。
そこで、島津亜矢さんのデビューから、芸の完成をみるであろう65歳までの50年間に、最終目的の「芸の花」を見ずして無念の涙を飲み、鬼籍に入られる筋金いりのファンの人数は、二千万人は下らないだろうと思われる。
そうした方々に対するご恩を、「芸の花」というお神酒を振舞う時期となる2036年以降のファンの方々にお返しすることである。それができるかである。
島津亜矢さんの芸に対する信念は、ただこの一点にあるものと思われる。
 このように島津亜矢さんの芸道とは、挑戦と努力の繰返されるところなのである。
正常な「芸を極める道」は厳しいというのはこうしたところにある。この厳しさに対して、ひるむことなく努力と精進で挑むから、必然的に「男時(おどき)」の魔力が近寄ってくるのである。
ここに、紅白での<帰らんちゃよか>が好評を博したもうひとつの要因があったものと思われる。

 さて、これまでを振り返ってみると、「イヨマンテの夜」の歌唱芸から感じた島津亜矢さんの芸で、「秘すれば花」の魅力を盛り立てているものは何かを追った結果、「煮え花」・「お焦げ」の味の美しさと、「鑑賞眼」の出来・不出来の具合を楽しむこの二種類の「芸の道楽」にあった。
この道楽の味わいと楽しさをみるもうひとつの具体的な例として、2015年末の紅白歌合戦における芸があるとして、これまでそれを探ってきたものである。
この探ってきたなかで気付いたのは、「芸の道楽」を楽しめるのは芸人が努力して手に入れた「匠の技」によるものが、その根底にあることだったのである。
その美しさは、形には残らないものだから気付きにくかったのであるろう。
だがこれを、形に残るものとして例えるならば、宮大工の建造した神社仏閣や、仏塔・五重の塔がある。また、仏像や伝統工芸にみる欄間等の彫刻、漆器、陶磁器、染色等の作品群の美しさに匹敵するものである。
「匠の技」は、これさえあれば、あとは何もいらないと思われるほどのものなのである。そこには匠心(しょうしん)があるからだろう。匠心には真実を追究する心が宿っている。これが真心になって現れるのである。だから美しいのである。
そこで、その美しさを見ていると、装飾とはそこに、物を良く見せようとする魂胆が潜んでいるのが分かる。しかし、本当に良いものは、装飾がなくても感動を呼ぶものである。2015年の紅白の歌唱が何の装飾芸もなく、スポットライト一本で感動を呼んだのはこれがためである。
島津亜矢さんは、今後もこうした本当に良いものを追い求めていくであろう。それがお神酒を振舞う時期の到来を早めてくれるものになるだろう。

 ところで、お神酒を振舞う時期の到来を早めてくれそうな意味での「芸の道楽」を味わえるものがあと一つある。それは「姿月あさと・島津亜矢ジョイントコンサート」である。これについては次項に譲って採り上げたいと思う。


 中秋の立待月を愛でなから 供えススキで跳ねる鈴虫
 



幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑧~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑩-⑦-①~「芸を極める道」・その出発点⑬-⑫2015年の紅白 「男時」と「精進の時期」

 投稿者  安宅 関平

 ところで島津亜矢さんは、聞くところによると3歳時にはすでにステージに立っていたということである。そして6歳時においてグランプリは100本を越えていたという。
ということはこの期間で、月間に3回以上はステージに立ち、その内3回はグランプリを手にしたということになる。
小学校入学までの期間に、これだけの豊富な経験は、人間が持つ音楽の感性をどれほど刺激し鋭敏にしたかは、計り知れないものがあるだろう。
この幼少期に、音楽に関する原石は人並み以上に掘り起され、素養は幼児年齢に関係なく喚起されて磨かれていたものと思われる。

 そのことは、この時期にすでに「男時(おどき)」を引き寄せる魔力をも磨いていたのである。
何故かといえば、この「魔力」は、常に芸に対する感心と芸を磨く努力が講じられるところにしか呼び込めないものだからである。
その意味では、努力の王道は努力の継続にあると言えよう。
そしてこの王道には、「魔力」を呼び込むものが伴なわれているのである。
人はこの「魔力」を体感すると、努力は苦労から快楽に変わるのである。すると「魔力」の運は、益々そこに運ばれてくるのである。

 島津亜矢さんの歌の上手さは、声の好さだの、歌唱の上手さだのという天性と思われるものだけでなく、こうした日々の努力が積み重なったものであることが、ここでよく理解できそうである。
逆な見方をすれば、努力の積み重ねが、天性のものを磨いていたのである。
というのも、14歳でデビューを果たすまでの、10年間のアマチュア時代の生活は、無意識のうちに芸人の基礎部分を刺激し、それを磨く努力を怠らないものだったのである。それがその後における芸能活動のなかでも、より厳しい「芸の正道」を歩める基盤になり自信になったように思える。

 ではそこで、その後の芸能活動とはどのようなものだったかである。
それはまず、15歳からの10年間は、一般的には人生で最も多感な青春時代の時期である。
この時期を、自分に合った芸道を切開き、確立する努力に費やしている。
また、25歳からの10年間は、今日で言う婚活といわれるの時期である。
この時期を、芸のすべてを吸収する大人の努力に勤(いそ)しんで、芸を育てている。
そして、35歳から10年間は、世間では子育て時期とされている。
この頃から、育てた芸を熟させる準備の、努力をする時期に入っている。
それは、芸とは神に祈願するための行為として生まれていることから、神聖なものである。
その神聖さには、神に捧げるお神酒造りと同様に、体力・精神力の健康度の充実を必要とすることである。いわば、この時期は身と心を清めて、芸を熟させるに足る心身の充実を図る努力を、重ねる時期の到来だったのである。
そして今、46歳を迎えている。
この後の10年間は、身を清め充実した心の後に行うべき、芸を発酵させ良き諸味(もろみ)に仕込む努力が必要になる。
さらにその後の10年間は、仕込んだ諸味(もろみ)からお神酒を搾り出す最も緊張する大事な時期としての努力を要するだろう。それは神が受け入れてくれるお神酒に育っているかである。
それが終えると65歳となる。
しかし、それ以降の10年はさらに大切な努力が必要となる。
それは半世紀も架けて出来上がった芸という「お神酒」を神に捧げ、神から大衆に振舞ってもらう努力の季節に入るからである。
神から大衆に振舞ってもらえる芸とは、「無」から発する心の芸である。これが芸の最終目的である「芸の花」になる。

 このように46歳からの20年間は、このお神酒を大衆に振舞ってもらえるような芸にする「精進の時期」に入るのである。
芸人の多くはこの時期に、芸の志(こころざ)しから脱落しがちである。
世阿弥はその理由を、見本が無いからだと説明している。
これまでは、どこかに見本があった。その見本を参考にし、工夫することで芸の上達をみた。だが、それは真似ごとでもあった。
真似ごとの芸では、神は大衆には振舞ってくれない。そこには魂がないからである。この魂は「無」から発せられている。それは真似ごとの中から、魂のある独自の芸を生み出したもので、無欲の芸である。神はこの芸しか大衆に振舞わないのである。
この後は、このための芸にする努力を必要とする。
島津亜矢さんにとって、こうした努力は苦ではなく快楽なのである。ここに明日の明かりが潜んでいる。


 田の神を迎え見送る神事あり 暦あらたにこころ洗わる