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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-①-⑳ 



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さん歌唱の「ボヘミアン・ラプソディ」から受ける感動の本質は、歌に吹き込まれだ「魂」にあった。
 そこで、その「魂」なるものは、どういうものかを追ってみた。
すると、そこにあったものは、物事に対して外面より内面に重点を置く、日本の精神文化だった。
この精神文化は、物と自分を一体化しようと精魂を込める行為である。
これが「魂」であり、この「魂」を物に吹き込む行為が日本の精神文化の実態である。

 では、こうした「魂」とは、どこでどう生まれるかである。
それは、生活の中から、「心」と「自然」とが深く結びついた時に生まれるものと思われる。
しかし、その「魂」は、どうして常に意識されず隠れているのかである。
それは、この「魂」が、日本人の「人を信じる文化」に埋没し、「恵まれた日本の自然」が埋没の跡を覆(おお)い隠しているからである。
それは丁度、呼吸するときの空気の存在と似たものである。
 ところが、「魂」を人の心に新たに甦らせたのが、島津亜矢さんの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱だったのである。
 以上が、前稿で紐解いた特異な感動の正体だった。

 しかし、特異な感動の正体は、まだ、一つほかに残っている。
それは、日本人の「心」と「自然」の、関係である。
この関係も特異な感動を生む不思議さがある。
本稿ではこのあたりを探ってみたい。

 まず、日本には古来より自然を敬う自然観がある。
それは、岩穴の何も無いところに、魂を吹き込んで神としているのは、この自然観からきている。このように万物に神が宿るとする精神は、現在でも生き続けている。
これは過去から自然と真剣に向合ってきた精神性によるものである。
 この自然観は、「恵」を与えてくれる自然の偉大さへの、感謝が根底に流れている。
 これが、「心」と「自然」の関係の始まりとなる。

 ところで、前稿において、「ボヘミアン・ラプソディ」の感動は、歌に吹き込んだ「魂」にあるとし、更にこの魂は究極的に、芸人が自分を磨いく「神」となるものだとしている。
 島津亜矢さんの芸の存在価値は、こうした「魂」に接することにある。
しかし、この「魂」は、一片の芸に接しただけでは、その本質は掴めない。
何故なら、島津亜矢さんの「魂」は、「現代日本の魂」を代表しているからである。

 では、「現代日本の魂」とはどういうものかである。
 日本の自然は、温暖で四季の変化の美しさに加えて、豊富な恵を与えてくれるものである。
そうした自然に、人間よりも圧倒的な強さを感じて真剣に向き合ってきたのが日本人である。それが「神」なる自然として生活の中に生きている。
この精神性が古来よりの日本の文化である。
 そうした「神」なる自然は、非科学的で俗信の世界観である。この世界観は日本特有のもので他の国にはみられない。
この世界観の基盤の上に、合理的で闘争心の強い欧米文化と、農耕による穏やかなアジア文化が組み込まれ、肉付けされたものが、「現代の日本特有の文化」である。
 島津亜矢さんの「魂」を「現代日本の魂」としたのは、この精神性が「魂」に宿っているからである。
 ここが、「心」と「自然」の深く結びつく根源になっている。

 では、この「日本特有の文化」とは、はたしてどのような性質のものかである。
 それは上記にあるように、古来の日本の文化に、アジア、欧米の文化を受け入れながらも、対立することなく、調和し融合された性質のものである。
この調和と融合された精神性が、「現代日本の魂」である。
「現代日本の魂」は、物づくりにおいて、自分と物ごとを一体化しようと精魂を込める行為である。この行為が、物づくりに反映されて、相手に渡ると真心を伝える分身の役割を帯びるのである。
日本製品の評価が、極めて高いその原因はここにある。
 これが、「心」と「自然」が結びついた効果である。

 島津亜矢さんは、熊本で生まれの生粋の現代っ子である。だから日本の文化はもとより、欧米文化にもアジア文化にも抵抗なく馴染める基盤が備わっている。
それが芸にも表れている。
芸は、楽曲の歌唱に「現代日本の魂」を吹き込んで、真心を伝える役割をみごとに果たしている。しかもその「魂」に、この三つの文化のよさが巧みに表現され、馴染みやすくなっている。
具体的には、POPSや洋楽の歌唱は、欧米文化の典型である。
その事例に、2017年・紅白の「The Rose」があり、今回の「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱がある。
また、おおらかさの美を感じる歌謡曲あたりは、アジア文化に近いものがある。
この典型に2014年5月放映・「BS日本のうた」で、天童よしみさんと披露した「美しい昔」の歌唱がある。
さらに、神秘性が伴い、やや暗い感のする人情味強いものは、非科学的な俗信の文化に属するとみてよいだろう。
この典型は「名作歌謡劇場」シリーズの歌唱である。

 しかしながら、この三種の歌唱に共通する特質は、その芸のすべてに、三つの文化が融合された表現となっていることである。「The Rose」や「ボヘミアン・ラプソディ」にも、「美しい昔」にも、「名作歌謡劇場」シリーズにも、人間の情感が込められて日本的色彩の色濃い慈愛が根底にあり、西洋、東洋の文化の味がその上に重ねられている。
ただ、違うのは楽曲によって、その文化の特色を表現する度合いの比率が、高いか低いかの違いだけである。
 このように、島津亜矢さんの芸には、あらゆるものを受け入れて、それを調和させ、融合するという優れた能力が発揮されている。
こうした能力ついて、多くの人々からの具体的な賞賛の辞がある。
それは、島津亜矢さんは何を歌っても素晴らしいとか、自分の歌として表現しているとした声である。
こうした声の出る要因は、あらゆるものを受け入れ、調和し、融合する優れた能力によるものの結果であろう。
 冒頭で、島津亜矢さんの芸の存在価値は、「魂」に接することにあるとした。
その意味は、この「魂」を理解した後で、そこから何を学ぶかである。調和し融合する優れた能力の発揮された芸からは、大衆が学ぶべきものが多くある。
 ここに、「心」と「自然」の結びついた意義を見出すことになる。
 次稿では、このあたりを紐解いてみたい。


 吹く風の川面にかかる霞みにも 上ゆく雲も春のあけぼの


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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-①-⑬ 


 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの歌唱した「ボヘミアン・ラプソディ」の感動は、「与える芸」から「受けてもらう芸」としたことによって、生まれたものである。
そうした感動は、軟らかく、か弱い感じで、すぐ洗い流せるだろうと受け止めたはずのものだった。
だが、タコかイカの吸盤が吸いついたように、なかなか離れず、簡単に洗い流せるものではなかった。
漸(ようや)く、吸盤は剥(は)がれはしたが、その痕は赤い痣(あざ)となって、今でも心の中に残っている。
 発想の転換による感動は、それだけ聴く者の心に食い込む特異な感動だった。

 この特異な感動は、「こころをほぐす」という心得から生じたところの、発想の転換と云う芸人の意識の変化が、芸に与えた影響である。
 ただ、この意識の変化は、特異な感動の母胎ではあるが、芸を「無位真人」の心境に近づけるためのものでもある。
 そこで、芸人のこうした思いによって生まれる感動の、本質とはどのようなものであろうか。
そしてそれは、どこで生まれ、どこに隠れていたのであろうか。
そうした疑問を、紐解いてみたい。
 ただ、これには内容が相当の深堀りになることから、文字数がかなりかさばることと思われる。そこで、投稿が二、三回に亘ることを覚悟して、紐解く作業に入りたい。

 この特異な感動の本質は、端的に言って、歌に吹き込んだ「魂」にある。
この魂は究極的は、芸人が自分を磨いていく心の支えである「神」となる。
こうした魂を物事に吹き込む精神は、日本人の本質的性格によっている。
 そこで、魂を吹き込もうとするこの精神の対象は、歌に限ったことではない。伝統工芸などの芸術品はもとより、民芸品、化学技術、食品、食器、箸・楊枝に至るまでみられる。
このようにありとあらゆるものにまで、魂を吹き込む精神が及んでいる。
 この魂の吹き込まれた製品は、国内はもとより海外でも大変人気がある。
例えば、若冲や北斎の絵画は国の内外で人気がある。また、化学技術を駆使した日本の製品や、和食、寿司、即席めん、銘柄米などの食品まで、海外での評価は高い。
それらには繊細な魂を吹き込んだ綺麗で、便利で、美味しさがあるからである。
 つまり、日本の物作りは、外面に見る技術の根源的価値よりも、魂という内面美に重点が置かれる精神文化によって作られているのである。
そして、その内面美による製品の商品価値は、外面に見る技術の商品価値より格段に上等なのである。
これは、物作りに携わる者は、無意識に美しい物・良い物・美味しい物を作ることで、相手に喜んでもらうことを大切にしているからである。
この現象は、魂を吹き込む者がそこに充実感を味わう文化だからである。これを、「おもてなし」の文化とも言っている。
面白いことに、「おもてなし」の文化は、この充実感を金銭による儲(もう)けよりも、優先させる文化である。
ここが、内面(精神)より外面(利益)を重視する外国の文化と異なるところである。
日本人の感動の本質はここにある。
 そうしたことから、島津亜矢さんの楽曲に魂を入れるとする精神は、最も日本的精神なのである。

 では、こうした感動の本質は、どこで生まれ、どこに隠れていたのかである。
 それを探すには、島津亜矢さんの芸の本質を、みる必要がある。
 島津亜矢さんの芸には、先天的とも思える優れた日本人の本質が流れているとみている。
 では、その優れた日本人の本質とは、何かである。
それは自然と深く結びついている「心」である。
それがため、芸における所作や行動にまで、その影響を見ることができる。
その影響から感じられるもは、助け合う心、弱いものを労(いた)わる心、自然の恵みに感謝する心、等がある。
更に自然の猛威に襲われる不幸に絶えうる心まである。その一端に、忍耐強さ、我慢強さに長けており、負けん気の強さもここに属するであろう。
これらは、すべて身と心が「自然と密着」していることから生じたものである。

 こうした身も心も「自然と密着」したことによって、精神の根底に流れているものは、「人を信じる」ことである。
この「人を信じる」ことも、平安中期から千年以上に渡って創り上げてきた日本人の性格である。
島津亜矢さんには、この性格が際(きわ)立っている。
「人を信じる」とした日本人の性格の結果は、個人レベルでは、人間関係における親切さ、優しさ、思いやりがある。また、国家レベルでは、治安の良さ、貧富の格差が少ないという住み良い国になっている。
日本人のこうした特長は、外国では見られないものであるという。

 ではどうして、このような日本人の性格が出来上がったかである。
それは第一に、地理的条件に恵まれていたことにある。
つまり、周りを海に囲まれていたことで、外国からの侵略のない歴史を作り上げたことである。これが、人を信じることに結びついているのである。
 陸続きの国々では、常に侵略したり、されたりの歴史が繰返されている。
ある国では、過去2000年の間に1000回以上の略奪や侵略の争いを経験している。それが人間不信に陥った。その結果、自国民以外はすべて敵視に似た警戒心を持つようになっている。
そこで、他国民を理解するには、納得いくまで100%話し合う必要がある。
そこには、半分(50%)ほど話したところで、物事の事情や心中を推察する、「察する」とした文化はない。話の途中に「間」を置いたり、「空気」を読んで理解するとした意識もない。
こうした「察する」とか、「空気を読む」とか、「間を置く」とかの意識は、日本特有の美意識である。
これは「人を信じる」ことから生まれた文化である。

 また、こうした日本人の性格が出来上がったことの第二は、恵まれた自然のあり方にある。
日本は気候が温暖で、四季の変化が美しい。昼や夜まで美しく感じる空間がある。
そうした自然のあり方が相まって、日本人の精神を支える様々な神が生まれている。
山の神、海の神、祠(ほこら)の神、岩の神、木の神、田の神、水の神など、限(きり)が無いほど神がいる。地震や津波や台風といった恐ろしいはずの自然までも、神になっている。
しかもそれらの神には全部に性格がある。どの神が強い・弱いの差もない。
これは恵(めぐみ)を与えてくれる自然に、生活と精神が密着していることの証である。

 このように、島津亜矢さんの芸から受ける感動の本質を紐解いてみると、優れた日本人の本質である歌に魂を入れることと、それは身も心も自然に寄り添っていることに原因しているとする結論に辿(たど)り着くものであった。
 しかし、まだ他にもある。この続きは次稿に移したい。


 春立ちて月さえわたる岩清水 夜風にこぼれ波立ち返る



幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-①-⑫ 



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの洋楽「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱が、聴く人に感動を与えたのは、どうしてだったかを前稿で探ってみた。
するとそこにあったのは、情感を刺激する歌唱力、「我欲」等の心情が伴わない技芸、「面」から「点」へ的(まと)を絞ったきめ細かな芸、等によって芸人の発する慈愛が、聴く人に生身に近い親しさを感じさせるものだったからである。

 これは芸人の、発想の転換と云うべき意識の変化が、芸に与えた影響と思われる。
つまり、観客全体に一律に聞かせる歌唱から、観客個々に合う歌唱として聴けることで、一人ひとりが自分の個性で受け止められる楽曲になっていたのである。いわば、芸の中の起伏に富んだ部分が、聴く人の個々の能力に応じて、どのようにでも楽しめるものになっていた為であろう。
これが発想の転換に伴う芸の効果というものと思われる。

 そうした発想の転換による変化の要(かなめ)は、芸人の芸の心得にある。
それは自分は自然界や人間界の刺激によって生かされているとする自覚を持ったことである。大げさに言えば、森羅万象とのかかわりの中で生きているとした自覚である。
このことは、人格が前進し、それが「無」に通じていく一歩として、歩みだそうとしている現象である。
 こうした現象が、「無の芸」に辿(たど)り着くために見えてきた、越えるべき「峰」の一端である。

 ただ、このことの理解には、大変困難を極めるもがある。
それは、新しい自分を創り上げるということだからである。
 新しい自分を創り上げることが、何故、困難なのか。
それは物事に対して保守的だからである。 
 その保守性があるため、新しいことに抵抗感を感じるのである。
 では、何故、保守性があると抵抗感を覚えるかである。
それは、保身が働くためである。冒険による苦痛や苦労を避け、楽をして得を取ろうとする考えがあるためである。
その根性が、新しい自分になることを阻んでいるのである。
 しかし、この因果関係は、ある心得によって、簡単に破れるであろう。

 その心得とは、
 もし、物事の道理が通じない相手に、何を言っても無駄な場合は、自身痛い目にあって悟るまで待つしかないだろうと、道理を説く者は溜息をつくだろう。
だが、はたしてそうであろうか。
その場合、道理を説く者は自分は諭す側で、相手は諭される側という前提を、少しもも崩さずにいて、ただ「分からず屋」だと嘆いているのではないか。
 そこで、耳を貸さないのは、実は道理を諭す側なのかも知れないのである。
それは、諭すよりさきに、相手の心をほぐすことに、意を向けてないからである。
何故、相手の心をほぐすことに、意を向ける必要があるかである。
それは道理に対する考えや思いが、異なっているいるからである。
そこで、心をほぐす心得があれば、スムーズな理解が可能になると思われる。
 だが、愚者のような凡人には、これが難しいのである。
「分からず屋」なのは道理を諭される側ではなく、諭す側であることに気付きにくいからである。
ここで大切なことは、物事に対しては前進する前に、一歩下がって何故道理が通じないかを考えることである。するとそこに、相手の心をほぐしていないことに気付き、ほぐす手段を見いだせるのである。
つまり、前進には一歩後退してから、進むことが必要だということである。

 これは、芸においても同様である。
芸人は芸を「無位真人」の心境に近づけるには、前進する前に一歩下がって、聴く者の「こころをほぐす」ことを、心得ることである。
この心得があれば、抵抗なく自然に新しい自分ができ上がる。
なぜなら、この心得によって発想の転換が図りやすくなるからである。
発想の転換があって、初めて「無位真人」に至る道が開けるのである。
 これが、冒頭の「無位真人」の影響を受ける前に、心得なければならない事柄である。
つまり、従来よりの与える芸ではなく、受けてもらうとする新しい芸の考えである。

 島津亜矢さんの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱に感動したのは、芸の中にこうした思いが潜んでいるからである。
その歌唱を聴く人は、こうした思いを無意識に感じ取っていることから、感動が無意識に湧くのである。
これが「こころをほぐす」心得から生じた発想の転換と云う、芸人の意識の変化が、芸に与える影響だったのである。
 そこで、こうした現象によって生まれる芸の感動の本質は、どこにあるかを、次稿で探してみたい。
その本質の中に、島津亜矢さんの芸の存在価値を、みるものがあると思われる。


 山も野も霞むばかりの春雨に 庭の草木の色わきにける 


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-①-⑪ 



 投稿者  安宅 関平

 前稿でも少し触れたが、芸人の意識が、欲に囚われない「無位真人」の影響を受けると、芸はどのように変化するかである。

 そのあたりを、島津亜矢さんの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱を参考にしながら、探ってみたい。
ただ、「ボヘミアン・ラプソディ」が「無位真人」の影響を受けた歌唱だと感じている訳ではないが、楽曲が洋楽であることから、楽曲の主張する真意を伝えるには、相当の困難を伴うことが予想される。
そこで、その困難をどう解消したかが、参考になるのである。
 というのも、言葉の違う洋楽でこの困難を解消できる芸には、「無位真人」の影響を受けたと同様の効果が、芸に現れるとみられるからである。

 ところで、島津亜矢さんの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱は、英語の歌詞で歌っている。
このことは、意味が充分に解からずに聴いた人が多いのではないかと思われる。にも関わらず、それで感動している。
 意味が充分に解からないのに、感動するという現象は、どうして起きるのか不思議である。
それはどうも、歌唱から受ける感覚にあるようだ。
その感覚とは、歌唱から受けるところの「力強さ」や「軟らかさ」による愛の情感である。その愛の情感に感動しているのである。
面白いことに、聴く人が歌の内容を理知的に解からなければ解からないほど、解かりやすい情感という感情面をもって、より強く探ろうとする鋭い感覚が働くものである。
今回「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱では、数多い感覚の中で「力強さ」と「軟らかさ」という感覚が強く働いたものと思われる。
これは、2017年の紅白で披露の「The Rose」から受けた情感による感動に似ている。

 一般に、「力強さ」には、困難に立ち向かう勇気を奮い立たせるものがある。
「軟らかさ」には、それが優しさに直結していることから、苦しみを癒やす働きがある。
歌詞の中味が解からなくとも、この情感の働きがその不足を補ってくれる。
 では、島津亜矢さんの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱は、その不足をどう補ってくれているかである。
それは、声質や感情移入の変化が、この「力強さ」と「軟らかさ」の二つ情感を刺激してくる。その刺激が繰返されることで、聴く者の心に希望と哀調の優しさが迫ってくる。そして、この働きが身体を包み込む。
その結果、歌唱は人の心に寄り添うものとなって、感じられる。
こうした人の心に寄り添う歌唱には、「力強さ」と「軟らかさ」の愛が、聴く者の渇ききって殺伐とした心を潤していく。
すると、心は情感の豊かなものに変化する。感動はここに生まれる。

 では「力強さ」と「軟らかさ」が、どうして心を潤す働きをするかである。
それは、観客が芸人の歌唱力によって、そのような働きをするように受け止めてしまうからである。
何故、そういう受け止め方をするかである。
それは、歌唱力にその要因が詰まっている。
その要因とはどのようなものかである。
それは、河川の遠望光景に感動するようなものである。美しく見えるのは、土手の高さと瀬や溝の深さの起伏に調和がとれているからである。高さと低さの起伏の調和が、美しさを鮮やかにしているのである。
芸人の歌唱も同様である。表現は、「力強さ」と「軟らかさ」が調和して、その濃淡の美しさが聴く者の心を叩くのである。
それが人心を魅了する。

 更に加えて、濃淡に富んだ歌唱の美しさが人心を魅了するのは、歌い手が歌を伝えたいとする「意識」とか、歌を理解して欲しいとする「願望」とか、はたまた、上手に歌って見せたいとする「我欲」等の、こうした心情が現れないからである。ここが「無位真人」の影響に似ている。

 では、どうして「我欲」等が現れないのかである。
 それは意識の変化にある。
その変化とは、歌い手がマスメディアの侵している悪い現象に似た、多くの観客に一律に聞かせようとする意識から、レシーバーで聴くごとき、個々向けに聴かせようとする意識へ変わることにある。
つまり、「全体」から「個」に的が絞られた芸になることだ。
すると、前者での満足度が50だったものが、後者に変わると満足度は100近くになる。満足度が100近くになれば、目的が果たせることから、「我欲」等は無くなる。それによって起伏や濃淡の調和がより際立ち、その情感の美しさが染み入るのである。

 そこで、洋楽の「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱が、言葉の違う洋楽で意思伝達の困難を解消できたのは、何故だったかである。
 それは、第一に情感を刺激する「力強さ」と「軟らかさ」の歌唱力、第二に「我欲」等の心情が芸の表面に現れない卓越した技、更に第三に「全体」から「個人」に的の絞られたきめ細かな芸という、この三点の特色によるものである。
こうした特色は、芸が「無位真人」の影響を受けると、更に鮮やかに現れてくるものと思われる。

ただ、この場合において、いまひとつ心得なければならない事柄がある。これについては、次稿で採り上げたい。


 あわれなる花芽ふくらむ老い木あり あと幾とせの春に逢うかな 


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-①-⑩ 



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんも北斎と同様に生涯、挑戦の人生を送るとすれば、そのうち「無位真人」の本質に迫ろうとする時期が到来すると思われる。
その到来の時期は、芸人側の立場より観客側の立場にある方が観察しやすいと思われる。

 というのは、観客は今まで芸人の発する慈愛を、一方的に受けて感動していたからである。
だが、芸人の意識が「無位真人」に変化すると、発する慈愛も変化してくる。
その変化の原因は、観客の一人ひとりが持つ数多の慈愛を、芸人が一度受け入れていることにある。その上で発する慈愛であるから、必然的に観客の慈愛の影響を受けたものになっている。
芸人の発したこうした慈愛は、観客にとってはより身近で、生身に近い親しみを感じるものになる。
つまり、芸人の意識の変化によって、発する慈愛は観客の影響を受けた受動的性質の慈愛に変わるのである。
それによって、すべての観客に芸人の慈愛が行き渡ることになる。
何故なら、観客にとっては、芸から受ける慈愛は、自分の持つ慈愛と非常によく似たものだからである。
ここに従来の慈愛との違いが出来上がるのである。
このことは、芸人にとって観客のすべてに芸を理解してもらえることになる。そこには、理解できず落ち零れる観客はいなくなるのである。
その例えとして、洋楽の歌唱で英語の歌詞は理解できなくとも、聴く者が感動することである。
これは何故かである。
それは観客にとって、芸から受ける慈愛は理屈抜きに、自分の持つ慈愛と非常によく似たものだからである。

 最近、そのことの良い事例がある。
2019年2月19日、NHKの「うたコン」におけるQUEENの「ボヘミアン・ラプソディ」である。
これは、デーモン閣下と島津亜矢さんがコラボした楽曲である。
このコラボはデーモン閣下が先行し、途中から島津亜矢さんが加入する仕組みになっていた。
このときの島津亜矢さんは英語での歌唱だった。それは正直言ってわからなかった。でありながら、心にビンビンと伝わるものがあった。
具体的に言えば、歌い出しの
   「Mama,just killed a man Put agun against his hiad,
   Pulled my trigger, now hes dead」
   「Mama,life had just begun,
   But now lve gone and thrown it all away」
において、心に強く響いたのは「Mama」の歌唱部分である。
これは、2018年の紅白で歌唱した「時代」の最終の小節、
   「今日は倒れた 旅人たちも」
の表現と、同一方向の歌唱である。
さらに、「thrown it all away」に、「うなり」じみた歌唱テクニックが入っている。
これらによって歌唱全体が、力強さの中に軟らかさを感じ、それが日本人好みの理由を必要としない哀愁を、醸す方向に変化して感じられたのである。

こうしたことは、芸そのものが世阿弥が説いた「衆人愛敬」で、目的とした「加齢延年、寿福増長」が叶えられる慈愛の、表現になっているからである。
このような慈愛の表現は、芸人の意識が幾分か「無位真人」の影響を受けようとしているところからきているものではないかと思われる。
 そこで、芸人のこうした変化の現象が、観客にとっては芸にどのような形で表れてくるのかである。
ここが、芸能鑑賞が目的の観客にとって、要となるところである。このあたりについては次稿で探ってみたい。


 人知れず思い出づるや君が恋 恋せじみそぎ神は受けじや