幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-④



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの恩師・星野哲郎氏の凄さは、島津亜矢さんが努力する能力を持ち、苦闘に耐えられる力と反発力があり、豊かな向上心という三点の素質を見抜いていたこと以外に、その素質が真価を発揮する時期や、どのような形態で現れるか迄を、予見していたと思われることである。
こうした予見は、そう簡単なことではない。それを自信をもってできるのは、教育・指導に大きな責任を感じて、ことに当たっていたからである。それは、命に代えてでも、一人前の人格者にする任を全(まっと)うするという、決死の覚悟からきたものであろう。

 では、その予見していたこととは、どのようなものだったかである。
 そこで先ず、予見において、素質が真価を発揮する「時期」について、どう見ていたかを探ってみたい。
その時期は、島津亜矢さんの芸に対する向上心が働いたときだと見ていたようである。言い換えれば、その時やその時期の「時分の花」を咲かせる思いに至ったときである。

 そこで、予見には、島津亜矢さんの向上心の働き方によって、違いをみせている。
それは、短期と長期の展望によるものである。
 短期展望では、その時々の島津亜矢さんが、自分自身に課題を与え、その課題を克服する努力の気概を持った時だとしている。
例えば、歌声に高低強弱を自在に操る技術を身に付けたいとか、長音(長調)、単音(単調)の特質を、歌声に反映させるにはどう工夫すればよいのか等を、考え始めたときである。
このように、その時々の年代に応じて、色々と向上心が沸き起こる時に、素質が真価を発揮するというのである。

 しかし、予見は長期展望に、より重点が置かれていた。
その具体的な事例は、「肉体面の変化」の到来時である。
それは歌い手なら、先ず声帯にくるだろう。次は活力の減退にくるだろう。そして、ついには筋肉の劣化となってくるだろう。
素質が真価を発揮する時期の重要な第一波は、この「肉体面の変化」する時だと踏んだのである。
 では、その素質の真価を発揮する時期の第一波を、「肉体面の変化」の時期とした予見の事由は何かである。
それは、デビュー時から40歳までの、成長の活力が漲(みなぎ)った躍動期の気概というものは、その時期が過ぎれば萎んでしまうとの思いがあるからである。
では何故、縮むのか。それは、人間であれば誰しも通過して経験することである。自然の流れである。だから、抗しようはない。
そして更に、すぐ第二波が訪れる。それは「精神面の変化」の時である。
この第二波は、「肉体面の変化」によって、ものの考え方に変化が起きるためである。
すると、このものの考え方の変化よって、従来の芸は脆(もろ)くも崩れ去るのである。
ということは、それまでの芸は、その時期に咲いた「一時の花」であって、「本物の花」ではないということになる。
 しかし、そこには救いがある。
それは、この「肉体面の変化」の自覚で、芸人の内面が変われば、芸が生まれ変わることができるということである。生まれ変わった芸には、人心を捉える力が伴っている。
何故ならば、その芸には、今までに無い新しい「美」が生まれているからである。しかもその新しい「美」には、本物の美しさを感じるものが現れるのである。だから人心を捉えるのである。
では、この本物の美しさは、人心を捉えるほどに何故美しいのかと言えば、それは芸人の内面で芸の内面を表現しているからである。
 この芸こそ、真の芸であり、芸人が目指すべき最終領域の芸である。星野氏は、その考えで教育・指導してきたもようである。
予見はその結果によるものだったと見るべきである。
つまり世阿弥のいう「本物の芸」と同質の芸を、育成することを目論んでいたのである。
 星野氏は、島津亜矢さんの素質の真価が発揮される時期とは、このように短期と長期を展望したこの時期が到来した時だと、踏んていたのである。
それは芸を、さらに価値あるものに変えようとする時でもあるといえよう。

 次稿は、素質の真価の発揮は、どのような現象によってどう現れるかを追ってみたい。


 夏の夜の薄きしとねの山の宿 夜の短きと鳴くホトトギス


スポンサーサイト

幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-③



 投稿者  安宅 関平

 星野哲郎氏が島津亜矢さんに伝えたかった思いとは、唯一、芸は「心」だということだったようである。
この言葉は、芸に携わる人たちの多くが口にする言葉でもある。
だが、星野氏の指導の思いは、「心が変われば芸が変わる」と言う、単純で分かりやすいものであった。
しかしながら、指導方法が間接指導のためか、その教えを理解し自分のものにするには、考える努力とそのための時間が必要なのである。
 「芸は心」というだけでも意味は漠然としている。それを、さらにオブラートに包み込んで繰り出す言葉の教えには、謎めいて雲を掴むごときに聞こえても不思議はない。救いは、やさしく身近な例えで受け入れやすい話によることが多く、聞く側には抵抗感はないようであった。
しかし、そのことが考えることの基本ともいえる正しい思考力を磨くことにつながっている。あれこれと迷い試行錯誤はしても、結論を「芸は心」の大事さの自覚へと導くものであった。
こうした教育技法は、考える範囲の幅の広さと奥深い追求心を必要とすることから、結論に至るまでには、幾つもの疑問や迷路に惑わされ相当の時間のかかるのは頷(うな)ける。
そうした考えることの試練の積み重ねが、一人前の人格者に育てあげるのに欠かせないことだとしたところに、この教育技法の特徴がある。

 ではここで、星野氏の「芸は『心』」という、その深意に迫ってみたい。
 歌とか演劇、更に映画でも、それらは「芸」である。
星野氏の思いでは、こうした芸とは表現しようとする芸能に潜んている訴えたいとする「心」を、その表現者である芸人が自分自身の「心」で表現することだというものである。
つまり、芸人が芸に描かれた内面を、芸人自身の内面で大衆に伝えることが、芸だというのである。

 これとよく似たことを、世阿弥も説いている。
芸人の内面で芸の内面を伝えるには、物真似だとか、テクニック・要領の良さ等をいくら駆使しても、それでは伝わりにくく、また伝え方も身には付かないものだ。
それはゆっくりと時間をかけて多くを体験し、物事の見聞を広め、地について芸心の核となるものを心得なければ、芸人の内面で芸の内面を伝える本物の芸は生まれないというのである。
ここで目に付くのは、「芸人の内面で、芸の内面を伝える芸」を「本物の芸」と表現していることである。

 星野氏はこの「本物の芸」を、島津亜矢さんに求めたのである。
努力を重ねて「本物の芸」を生む芸人を、「本物の芸人」とした根拠はここにある。
星野氏のいう「芸は『心』」と云うその深意は、自分の内面を磨いてものごと(=芸事)に当たれというところにある。そうすれば「芸の内面」を表現できるというものである。
あの飄々(ひょうひょう)とした言葉に含まれる深意の芯は、内面を磨けというところにあるということだ。

 星野氏にとって、最後の弟子となる島津亜矢さんに賭けたものは、「芸人の内面で芸の内面を表現する」ような芸人、つまり「本物の芸人」に成長することへの期待であった。
そこは、歌人(うたびと)が目指すべき芸の最後の領域でもある。
こうした高い質の芸の披露に、期待を賭けた芸人は、おそらく島津亜矢さんが初めの終わりだったであろう。

 星野氏は、島津亜矢さんにはそうした期待を賭けるだけの素質があると踏んでいたようでもある。永い人生経験から人を見る目利きに自信があったからであろうか。
その自信の持てた基盤は、三点もあった。努力する能力を持ち、苦闘に耐えられる力と反発力があり、そして何よりも豊かな向上心を持ち合わせていたことであろう。他には、絶世の美人ではなかったことが幸いしていた。愛嬌のあるかわいさが芸人向きで、末永く大衆から愛されるだろうと思われたようである。
 そこで、この三点があれば、芸の内面は変えられないが、自身の内面は人格の陶冶で幾らも変えられると踏んでいた。
それができれば、芸人の内面で芸の内面を伝える表現力の身に付いた芸を、発揮できると考えたのであろう。
ただ、島津亜矢さんは純粋な現代っ子だったから、干支で4周り近い世代の違う星野氏にとっては、随分手を焼いたものと思われる。それだけに目先のことよりも、30年後、40年後の将来を見据えた指導に情熱を燃やしたものと思われる。
手を焼きながらも、そこにあった主眼は、将来、島津亜矢さん自身が自分で、この三点の素質を最も必要とする時期に、どう生かすことができるかであった。教育指導の重点はここに置かれていた。そこに苦労と苦心があったようである。
星野氏のこの苦労と苦心は、島津亜矢さんの将来の浮沈がかかることでもあり、決してないがしろに出来ない神からの命令でもある。
そうした重責を担っていると思わせることが、幾つも考えられる。その度に、命に代えてでもこの任を全(まっと)うする決死の覚悟を、見たのである。
 そのあたりは次稿で採り上げてみたい。


 亡き祖母の薮入り話耳にした 旧盆の夜の仏間のあかり


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-②



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの芸に著しい進境をみたのは、「精神面の変化」による影響も大きかったと思われることから、「精神面の変化」の意義とその影響について考えてみた。前々稿で将棋の羽生善治氏、前稿は野球の松井秀喜氏の事例を引き合いにだしながらその影響の大きさを探ってきた。

 前稿の松井秀喜氏のメジャーにおける成功は、「信頼」を得る行為によるものであった。これも「精神面の変化」の影響の結果である。
こうした松井氏の「精神面の変化」の影響とは、羽生善治氏や島津亜矢さんのものと同質である。それは、人格を陶冶した結果からきているからである。
 羽生善治氏における「精神面の変化」の影響は、生涯を掛けて極めるものを見つけ、一回り大きい豊かな人格による棋風を確立したことである。それによって味わい深い将棋を指すことにつながったというものであった。
 島津亜矢さんにおける「精神面の変化」の影響は、星野哲郎氏より示唆に富む言葉である「温故知新」が贈られたのをきっかけに、現在と未来を見つめていた視点に、過去をも振り返る視点を取り込むようになったことである。それにより、芸に一段と深みを感じ味わいのある「軟質芸」と「新マイルド感」が誕生したことであった。
これらはいずれも、従来の自分よりも数段上の豊かな人間性が備わったことからきたものである。

 羽生善治氏は現在48歳、島津亜矢さんは47歳、松井秀喜氏は44歳である。いわば、同世代である。
この同世代の三人が、未(いまだ)だ、「人間五十年、化天のうちを比ぶれは、夢幻のごとくなり」と織田信長が好んだ謡曲「敦盛」の域にも達しない年齢でありながら、何がそうさせたかである。
 そこで、この三者がそれぞれにかような人格の成長を生み出したことの、共通点は何であろうかを探ってみたい。

 その第一は、やはり「努力」であろう。
 この努力については、羽生善治氏は自分の経験から編み出したものなのあろうか、「才能とは努力を継続出来る力」であると考えている。
 松井秀喜氏は「努力できることは才能である」という言葉を父親から承っている。
 島津亜矢さんは、星野哲郎氏の「その喉と根性さえ腐らなければ何とかなる」という言葉がきっかけとなっている。
この場合「根性が腐る」とは、それは努力を怠ることを意味している。努力を怠らずに続けていけば、必ず道は拓かれるというものである。
島津亜矢さんはこの言葉を、自分の心の中で反芻(はんすう)し成熟させて、その持つ意味の重さを芸の向上につなげている。

 そこで、少し話しは逸(そ)れるが、この「その喉と根性・・・云々」の言葉は、星野哲郎氏の人間性から来る独特の、巧みな教育方法であった。自主性を尊重する教育法である。
それは、まるで霧か霞の掛かった言葉を耳にした者は、その言葉が何を意味してるかを理解するのに、心の中の理解を妨げる幾重もの障害のフィルターを掻(か)い潜(くぐ)り、解き明かす作業を繰り返す教育法である。これは間接技法による教育であるから、感度の鈍い芸人は聞き流してしまうこともあろう。そしてそれは、意思疎通の面では回り道でもある。だが、それが分からない者は置き去りにする手法である。
これほど酷な教育方法はないだろう。しかし、これほど成長するのに確実な方法もない。
それは島津亜矢さんを芸人として、人間として善き人生を全(まっと)うさせるには、大所高所から人の道の基本を、しっかりと確実に教え込むことにある、との考えによるものであったのだろう。
人の道の基本とは、「義」と「理」と「情」の豊富なこころを持つことである。
そこで具体的には、枝葉末節的なことに、口を挟むことはしない。
ああしろとか、こうだというよりも、意味深長な言葉を投げかけ、それを深く考えさせ、幅広くその意味の追及が出来るように仕向ける手法をとっていたのである。
その場合、その言葉の理解に一ヶ月かかることもあれば、三年も四年も掛かることもあろう。しかし、いくら時間がかかろうとも、それを気長に待つのである。その結果によって出された結論は、生涯忘れずに自分自身のものとなるからである。
 こうして星野氏は、61歳の時期に島津亜矢さんの教育・指導に携わり、85歳の他界まで25年間に亘り、成長のために手を差し伸べて鍛えていたのであろう。

 こうして鍛えられた島津亜矢さんには、深い思考力から発せられる人心を洞察する優しさがある。それが芸に転換され、大衆の心を癒やせる芸となっている。
しかし、この深い思考力を身に着けるためには、相当の苦労と努力を重ねる必要があったであろう。
その苦労と努力に、星野哲郎氏の目的があったものと思われる。
星野氏の島津亜矢さんに対するこうした目的はどうして生まれたかを考えてみると、それは人を見るその目利きの鋭さに窺(うかが)える。
 というのは、星野氏は島津亜矢さんを預かったときから、大器晩成型の芸人に育てようと考えていた趣をみることができる。長い時間をかけて、ゆっくりと育て上げることで、不動の芸人ができるというものである。
その芸人とは50歳を超えて花が開くものである。
何故なら、20歳台、30歳台、40歳台においては、まだ人間として未熟期だと考えていたものと思われる。この未熟期において、人気があるだの、歌が売れただので、心が空を舞うことがあってはならない。それでは本当の芸人にはなれない。だから、決して喜ぶべきことではなかったようである。
島津亜矢さんは、星野氏のその心の内を知ってか、知らずか、20・30歳代において、自分の思いのままにならない現実の不満を、愚痴りにいったようである。そうした島津亜矢さんをなだめる星野哲郎氏の思いは、いかばかりだったろうか。
そしてそれが繰返されるうちに、いつしか出た言葉が「その喉と根性さえ腐らなければ何とかなる」というものであった。しかし、その言葉を吐くまでは、何度も何度も来るたびに寿司を食べさせたり、小遣いをはずんだりして、慰めを重ねたようである。
 こうまでしてゆっくりと育てたかった星野氏の思いには、そこに何があったのであろうか。それについては、次稿に移したい。


 梅雨明けの白南風(しろはえ)受けて鳴く木の葉
                   すがすがしきかこすずめ躍る



幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-①



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの芸が著しい進境をみたのは、「精神面の変化」による影響も大きかったと思われる。
そこで、「精神面の変化」とは一体どのようなことなのか、その影響とはどのようなものかについて、将棋の羽生善治氏や、野球の松井秀喜氏の事例を紹介しながら考えてみることにした。
前稿では、棋士の羽生善治氏の事例について考えてみた。

 本稿は、野球の松井秀喜氏の事例を見ながら考えてみたい。
松井秀喜氏については、以前に(ブログ「島津亜矢Fan」〔 http://atakanoseki.blog.fc2.com/ 〕)に「松井秀喜と島津亜矢」という標題で8回(2013.5.25~2013.8.5)に亘って採り上げているので、ここでの紹介はその内容がダブらないようにしたい。

 松井秀喜氏は1992年に鳴り物入りで球界に入り、日本で10年、アメリカで10年、野球選手として活躍、2012年に現役を引退した。現在、ニューヨーク・ヤンキースでGM特別アドバイザーを務めている。
 彼は、現役時代は数多の記録を作り、野球ファンの期待に応えてきた。
中でもメジャーリーグでの脚光の浮き沈みは凄かった。
2003年3月公式戦開幕試合で初打席・初安打・初打点の新記録、4月の本拠地ヤンキースタジアムでの開幕戦は、初本塁打が満塁本塁打と、いずれも感動を与えた。そしてその後の、チャンスに強い勝負強さは定評があった。また、日本よりはるかに試合数(162試合)の多いメジャーリーグで、2003年から2005年にかけ、ただ一人三年連続全試合出場を果たすという大リーガーで初の快挙を成し遂げている。
それだけ真面目で、また体力に恵まれていた。
MLBオールスターゲームにも2回選出されている。
 そうした中、2006年、突然にアクシデントが襲った。左手首の骨折である。翌年の2007年には更に膝に故障が起きた。これによって野球選手として、人間としても壮烈な体験をすることになる。
というのも、怪我との戦いの日々で、納得のいく成績を残せなくなったことである。それでもその痛みを乗り越え全力でプレー続け、その努力の報われる日がやってくる。
それは2009年ワールドシリーズである。3勝2敗で迎え、勝てば7年ぶりの優勝をつかめる運命の第六戦、松井氏は先制のツーランを放つ。その後も勝負強さを生かして6打点の大活躍をする。
それは、ヤンキースのワールドシリーズ優勝に大きく貢献するものであった。そして見事に最優秀選手(MVP)に選ばれた。
しかし翌年ヤンキースは怪我に不安の残る松井氏との契約を更新しなかった。
そこで7年間在籍したヤンキースと別れ、2010年エンジェルスへ移籍、2011年にはアスレチックスへ、2012年はレイズと契約した。しかし、いずれも好結果を出せなかった。その後、松井氏と契約するチームは現れなかった。そして、2012年12月27日現役を引退した。
それはワールドシリーズMVPの栄光から僅か3年後のことであった。
この壮烈な体験は、松井氏を人間として更に大きく成長させるものであった。

 そこで松井氏の野球哲学の変遷を、改めてみてみたい。
 身体を酷使するスポーツ界では、怪我は付きものである。それをいかに避けられるかは、日頃の精進と身体のメンテナンスによるところが大きい。松井氏の3年連続全試合出場はその証であろう。
しかし、30歳を過ぎると足に衰えを感じるようになる。この衰えは精進だけではかなわない言わば自然に訪れる「肉体面の変化」である。
この「肉体面の変化」の自覚で、メジャーリーグでの野球に対する取り組みが変化した。
それは、長距離バッターでありながらそれには拘らず、チームプレイに専念するようになったことである。
しかし、32歳時でのプレー中の骨折や、33歳時の膝の故障と言う怪我で、「肉体面の変化」が表面化し、思うように動かない身体に対して効果的な打つ手はなくなっていた。

このころから再度、松井氏の野球に対する考え方が変わった。それは、結果を素直に受け入れて前に進むことである。
それは、諦めではない。未練でもない。身体の衰えという現実を直視した積極的な対応である。
そうして、トレーニングを重ねて痛みを押してプレーを続ける日が続いく。
その苦労の花が最後に開いたのが、35歳時のワールドシリーズでのMVPの受賞であった。だが、その後は華々しいプレーをみることはなくなった。
しかし、故障による不調で気落ちすることはなかった。
それは「結果を受け入れて前へ進む」というその積極性が、意外とチームメイトを励ますことにつながっていたのである。
それは負けない野球の先駆者としての敬意を集め、信頼を得ることに結びついていたようであった。それがニューヨーク・ヤンキースのGM特別アドバイザーを務める契機にもなったものと思われる。

このように、松井氏も足の衰えという「肉体面の変化」が、「精神面の変化」に影響を与えていたのである。
それは、長距離打法から勝利に貢献するチーム打法へ主義が変わったことや、プレーの結果を受け入れながら前へ進むという野球哲学の誕生である。
松井氏にとって、こうした「精神面の変化」は、勝負の世界でチームを勝利に導くには、チームメイトをいかに生かしてチャンスを作るかでり、それには何が必要かを探るものでもあった。そこで得たのは「信頼」の二文字である。
簡単に「信頼」の二文字と云うが、そこには豊かな人格がなければできるものではない。松井氏は日本でも、アメリカでも、日頃から常に野球を通じて技術と人格を磨いていたのである。それによってチームメイトや監督、球団の首脳陣まで、幅広く信頼を得ることができていた。信頼を得ることで技術も伸びた。それが期待に応えることにつながったのである。その下向な姿勢を高く評価したのがトーリー監督だった。
現在、ヤンキースのGM特別アドバイザーとして、ダブルAとトリプルAの選手の指導に当たっているのも、この人格による「信頼」が大きくものをいっているようである。

 松井秀喜氏のこうした野球軌道の経緯から生まれた「信頼」は、島津亜矢さんの芸の進境の変化や羽生善治氏の棋風の変化と共通するところがある。このあたりは次稿で採り上げてみたい。


 肌を刺す暑さの後の半夏雨 奉る田の神天に昇れり


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-④



 投稿者  安宅 関平

 島津亜矢さんの、アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」に感じる新マイルド感の創造には、環境変化の内部要因である「肉体面の変化」と「精神面の変化」も影響していたのである。
前稿においては、そのうちの「肉体面の変化」についてその影響を探ってみた。
そこで本稿は、もう一方の「精神面の変化」について探ってみたい。

 「精神面の変化」とは、これ自体が独自に変化することは少ないようだ。
というのも、この変化は「外部要因の変化」とか、「肉体面の変化」に刺激されて変わる受身の変化だからである。
では、それらの刺激による「精神面の変化」の形態や影響とはどのようなものかを、前々稿でも触れた将棋の羽生善治氏や、野球の松井秀喜氏の事例を紹介しながら考えてみると、大変分かりやすいと思われる。

 先ず、羽生善治氏にみる「精神面の変化」の形態と、その影響についてである。
 羽生善治氏は、15歳でプロ棋士になり、25歳で史上初の7冠を制覇した。
しかし、若くして頂点を極めた羽生善治氏にとって、この後は棋士としてどう生きるかの迷いが生じたという。目標を達成したあと、新たな目標を見つけられなかったからである。
そのためか、怒涛のごとき勝ち将棋に、気がつくと負けが加わるようになっていた。それは、持ち味の積極果敢な攻撃を繰り出せず、守りの将棋に入ったためだと言っている。
 更に、30歳を過ぎると、将棋は変わったという。
いままでの一手指すにも千手先を読む将棋は、影を潜めたのである。
それは、手を読むスピードは落ち、ひらめきや記憶力、反射神経が衰えたからだ。そのためむしろ、あえて読まないようになった。
いわば、「肉体面の変化」の自覚により、将棋の指し方が変ったのである。
 こうした「守りに入った」ことと「肉体面の変化」で、将棋の指し方に狂いが生じ、その後、羽生氏の持った7冠のタイトルは「王座」1冠だけとなる。
ここに、身体の衰えという「肉体面の変化」の、苦しさと怖さを知ったと言っている。
 だがその苦しさにもがく中から、大事なことに気付くのである。
それは、手を読むことより勝負の流れを読むことだった。いわば、物事の全体の有様や成行きに対する見方を大切にした大局観による将棋である。
全体的判断で手を捜していくこの大局観における勝負では、負けても得るものがあった。
 というのも、従来の棋風は年数を重ねていくと身の衰えを知り、手堅くとか、無難にとか、という気持になる。すると無謀なことをしなくなる。だが、そこから何が生まれるかと言えば、何も生まれない。何も生まれないから、負けの苦だけが幅をきかせ自分を苦しめる。
ところが、大局観による棋風では、勝負において、これはいい作戦だからもっともっと極めて、自分の「形」みたいなものになればとの思いが強くなる。すると、そのための負けは苦にならない。
 このことに気付いたことは、その後の羽生氏の将棋人生に強い影響を与えた。
それは、棋士とはただ勝つために将棋を指すのではなく、「生涯を架けて自分の将棋を極める」ところに価値を置いて、将棋を指すことだと悟るものだったからである。
これは天才と呼ばれた男が、我欲のまつわり付く勝負での「迷い」と「肉体面の変化」によるその怖さの体験の中から、将棋を極めることに価値を見い出し、そこに自分の「路」を見つけたことは、神聖な棋士道に通じる悟りでもあった。
 このように、身体の一部である頭脳が思うように働かなくなる衰えの怖さを体験して見つけた自分の「路」が、その後の永世七冠につながる勝利を生んでいったのである。
 こうした現象は、明らかな目標の喪失という「外部環境の変化」と思考力の衰えという「肉体面の変化」の刺激によって、極めるという神聖な棋士道に通じる悟りとなる「精神面の変化」を生じた経緯である。

 果敢に戦い、その目標を達成したが、その後は「肉体面の変化」の訪れに苦しめられる。だが、その苦悩との格闘の結果、大局観の棋風が生まれ、棋士の価値を棋士道を極めるという「路」に見出す「精神面の変化」を招いた。このことの影響として言えるのは、物事に対する「許容」の範囲と量を増やし、一廻り大きい豊かな人格による棋風が生まれたことである。更に、新たな悟りで正攻法の棋道が加わることで、棋士としての正道の風格が漂よう味わい深い将棋を指すようになったことである。
 国民栄誉賞の受賞は、こうして歩んできた軌道の延長線上のものであろう。

 こうしたことは、島津亜矢さんにおいても同様なことが言えるであろう。
それは腑に落ちない業界の中に身を置き、ムンムンとしていたなかで、星野哲郎氏の他界という「外部環境からの刺激」と、加えて人間としての成長期の終焉を迎え、「肉体面の変化」という内部環境の変化に、対応を迫られたことである。そして、その対応は、高度な人格性を必要とするものであった。
それらをクリアして、アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」にみた「軟質芸」の確立、「新マイルド感」の創造という芸風を編み出し、大衆芸能に奥行きの深さを付与したのである。

 羽生善治氏と島津亜矢さんの、新しい「路」のそこに共通するものとしてあるのは、決断が鈍ったり、決断をためらったり、選択が中途半端だったりすることがなくなっているこであろう。それは迷いから開放されようとしていることでもある。
こうしたことは心の広さに依るものである。心の広さとは物事に対する許容の範囲とその量が増えることであり、それによって従来まで見えなかったものが見えるようになった為であろう。

 これらが羽生善治氏にみた「精神面の変化」の形態と、その影響である。
「外部要因」や「肉体面の変化」の刺激によって起きる「精神面の変化」は、いかに大きな影響力をその人の人生に及ぼしているかが、具体的に分かるよい事例かと思える。
 こうしたことを言い換えれば、肉体の衰えとは、人間の成長を促す信号でもあることを証明するものである。その信号を巧みに生かせたのが羽生善治氏であり、島津亜矢さんであろう。
 松井秀喜氏の事例については、次稿に移したい。


 雨上がりふんわりと舞う蛍火の 稲穂にふたつなぜに消え行く