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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-①-② 



 投稿者  安宅 関平

 前回より「第69回NHK紅白歌合戦」で島津亜矢さんが歌唱した「時代」に、世阿弥のいう「無の芸」に通じる要素が見られたか否かを考察している。
今回は、その要素のひとつである「用花」・「性花」の、芸風の有無について考えてみたい。

 まず、繰返すことになるが「用花」・「性花」とは、どのような芸かである。
 世阿弥は、「用花」は一時の花であり、「性花」は永遠の花だとしている。
一時の花とは、芸人のその時期や、年代にのみ見られる旬の芸である。
旬の芸は、旬の時期や年代が過ぎると、消えてゆく性質のものである。
子役の愛らしき芸の魅力がその代表例である。
こうしたことは、「子供の頃の芸は可愛かった」とか、「二十代頃はピチピチしてた」とか、「あの頃は脂がのりきっていた」などの、よく聴く言葉に現れている。この性質の芸を「用花」としている。

 しかし、そうした時期や年代が過ぎても、衰えたり消えることのない芸がある。
それが「性花」である。
その典型が形式美である。
形式美とは、芸の美しさの表現を、永年にわたって積み重ね、形式で固めたもので、「型」といわれる芸である。伝統芸能に多く見られる。

もう一つの消えることのない芸は、技術と芸理との両面を究めた芸である。
この芸には、美しいだけでは表現できないものがある。それは芸に潜んでいる奥の深さと幅の広さである。これは、素人にでも感覚的によく分かる。例えを挙げれば、歌唱における声の響である。演劇においては所作の切れ味である。
 島津亜矢さんの今回の紅白における芸は、まさにこの美しいだけでは表現できないものを、感じさせるところがあった。
これを言い換えれると、「性花」風にきわめて近い芸だといえる。

 そこで、「性花」風に感じたその根拠を、整理してみたい。
 その第一は、いまや島津亜矢さんの性格にまで溶け込んでいる謙虚さが、芸に多大な影響を及ぼしていたことが分かったことである。
特にそれは結論から言って、「性花」風の芸の向上に強い影響を与えていたのである。
それは、謙虚さのその影響で上達した芸の積み重ねが、「性花」風の芸の向上を加速させていたことが、「時代」の歌唱に現われていたからである。
 では、その発見の主たる根拠である。
それは、島津亜矢さんが幼少のころから歌が上手かったことにある。
そのことについて一言云えることは、人並みはずれた才を持つ人間の多くは、いつかは慢心に陥るときがやってくるということである。
これは、神が才を授けた人間に対してなす、神の罠である。
島津亜矢さんも若い頃は、この罠を回避できなかった。
だが、深手を負わなかったのは、この時に培った謙虚さによるものだったことが、今回の舞台における態度や仕草でよく分かった。

 ではこの謙虚さが、芸の向上にどのような形で影響したかである。
 それは謙虚さによって、芸の学び方や学ぶ機会の間口が広まったことであろう。
と云うのも芸の学び方では、自分より上手な芸から学むと同時に、自分より下手な芸からも学んでいることである。
このことは、「うたコン」や「新・BSにっぼんの歌」、「NHKのど自慢」などでも、よく見かける光景であるが、番組の共演者や素人の歌い手が歌っているときは、島津亜矢さんも口を動かしながら、心の中で歌っている。
ここに、上手・下手にかかわらず、そこから謙虚に何かを学ぶという姿勢が見て取れる。
 大事なのは、上手な芸人の多くは、下手な芸をみて、大概は「そこから何を学ぶのか?」と、思い上がることである。
すると、上手な芸人は、この思い上がる心に縛られて、自分の悪いところを無視するようになってしまう。
ここに芸の向上を、阻むものが潜んでいる。
 また、下手な芸人は、もとより工夫しないから、自分の欠点がみえない。するとまた、それは自分の長所にも気付かないことに通じるのである。

 こうした心の変化が、芸に及ぼす作用を見てみるとどうだろうか。
 上手な芸人において、自分はあのような悪い芸などするはずがないと慢心を持つと、芸は自分の長所をまったくわきまえないものになる。
それは長所をわきまえなかったり、知らないと、短所をよしとした芸になってしまうことに通じる。こうなるといくら年季を積んでも芸は上達しない。
この現象が下手の心である。
この下手の心があると、たとえ上手な芸人であっても芸を下げることになる。
これが、思い上がりが芸を下手にする仕組みである。

 また一方で、下手な芸人でも、上手な芸人の悪いところがみえることがある。
その時、あれほど上手なのに欠点があるのは、初心者の自分もさぞかし欠点も多いはずだと悟り、そこを恐れず人に尋ねながら勉強し工夫をする者がいる。
これが良い稽古、よい勉強となって芸が早く上達する。
心の変化が、芸に及ぼす作用とは、こうしたことである。

 島津亜矢さんの謙虚さの効用は、思い上がりが芸を下手にするという悪事を、心の中へ招かなかったことである。
それに加え、自分に生じる欠点を素直に悟る心得を養えたことである。
それらが、芸の向上に作用したとみられる。
紅白の歌唱で、迫真性を感じた「性花」に近い芸風は、上記のこうした経緯による謙虚さの作用で、確立された矜持によるものである。

 紅白で歌唱した「時代」に、「性花」風と感じた根拠の第二である。
 それは、幼いころから壮年にいたるまで、その時代時代に自ずと身に付けた芸を、すべて覚えていると感じたことである。
つまりそれは,「用花」の美が枯れることなく、あるいは枯れてもまた復活して積み重ねられていることである。
これは「用花」を、「性花」の芸のタネとして持ち続けている言えることである。
花は枯れてもタネさえ残っていれば、季節が巡って来ればまた美しい花を咲かせるものである。
このタネを忘れない心が、永遠に枯れない花を持つ源である。「時代」の歌唱は、それを証明していた。

 「第69回NHK紅白歌合戦」での島津亜矢さんの芸にみられた、「無の芸」に通じる要素として見い出せたものは、謙虚さの作用により確立された芸に対する矜持と、「用花」のタネを数多く持ち続けていることの二点であった。
この二点が、聴く者の心を豊かにした基盤になっている。
この心を豊かにする芸こそが、「無の芸」に通じる最も近い芸であろうと思われる。

 次稿では「みごと」について、見てみたい。


 晴れたるに木の芽も春の雪降れば たまらず芽吹きの色はこもれる


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幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑪-① 



 投稿者  安宅 関平

 世阿弥は芸能における終着点を「無の芸」としている。
その「無の芸」の要素に、「心の糸」と「内心の緊張」を挙げている。
 「心の糸」とは、技芸面の「無心の芸」のことである。
これは日常生活の中での鍛錬によって生まれるもので、単なる努力を超えた極めて質の高い技芸だとしている。
島津亜矢さんの芸に深さがあるか否かについては、この「心の糸」をどう捉えるかの、見方にあり感じ方にある。
 「内心の緊張」とは、心の充実・緊張を指している。
島津亜矢さんの芸には、観客と芸人の双方に「内心の緊張」を創り出す仕組みがある。それが双方の人格の高揚に結びつくという不思議な構造になっている。
 観客における「内心の緊張」は、芸能観賞の取組姿勢に、鑑賞力を身に付けたいとする積極性が働くことによって起きる緊張である。芸がその積極性を増長する働きをしている。
 芸人における「内心の緊張」は、観客を芸に取り込む瞬時の「工夫」が伴う場合に生じる緊張である。

 世阿弥は、こうして生まれた芸の魅力や美しさを、観客目線で「用花」・「性花」と呼び、芸人目線で「時分の花」・「まことの花」と呼んでいる。
「用花」とは「時分の花」と同意語で、一時期だけの美しさであり、必ず衰える花としている。
「性花」とは「まことの花」と同意語で、真の芸の魅力を追及したもので、それは衰えることはない花としている。
そして、「用花」・「性花」の芸におけるその魅力に、感動することの表現を、「みごと」としている。
「みごと」とは、「興趣の深い芸」を指すものである。

 この「みごと」にも、性質によって二種類がある。
ひとつは、名手や達人と呼ばれる芸人に見る「飛花落葉を常住と悟る」芸である。
あと一つは、悟るところまで行かなくても、ある程度花を見せる芸である。
この違いは、芸人の芸質と観客の感賞眼の質の違いによって、「みごと」とする感動に、変化が出るとしている。

 更にこの「みごと」とする感動にも種類がある。
 それは、芸から受ける感動が、その人の無意識の内に起きたものか、意識の中で起きたものかによって決まってくる。
 前者での感動は、人間の意識の及ばない境地で、神聖なものである。
芸能鑑賞で、この神聖な境地よる感動が、人心を豊かにしてくれるとしている。
 後者での感動は、芸人が深い境地で創り上げた花を、観客が芸の中で「面白い」と見い出したときに感じる「みごと」である。
 こうしたことが、これまでに世阿弥の「無の芸」を追い求めてきたところの要点である。

 さて、世阿弥の「無の芸」の思想には、まだ少し続きがあるが、ここで2018年末の「第69回NHK紅白歌合戦」で、島津亜矢さんの歌唱曲「時代」の芸に、今までみてきた「無の芸」に通じる要素が見られたか否かを検証してみたい。

 まず、「心の糸」についてである。
これについては、この素人では心の糸は感じなかった。
出だしの
   「今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて」
から最後の
   「今日は倒れた 旅人たちも 生まれ変わって 歩きだすよ」
まで、歌詞の意に沿った自然な流れで歌唱が進んでおり、そこに不自然と思われる歌唱は見当たらなかった。この辺りは、専門家や玄人筋ではどうであったろうか。
ただ、それが無心から生じているものかは、改めて検討することにしたい。

 次に、「内心の緊張」である。
観客の立場にあっては、やはり常に緊張の続いた芸であった。
出だしの、
   「今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて」
での、アカペラにおける高音の響は、強く印象に残るものであった。だが、この後の芸の展開が気になった。
すると、
   「そんな時代も あったねと」
から、ピアノが伴奏され、
   「だから今日は くよくよしないで」
の楽章に入ると、弦楽器の演奏が加えらた。それでようやく心に落ち着きを取戻し余裕が感じられるようなった。
その後は、淡々とした芸が進行するに伴い、何故か緊張が高まっていく自分が分かった。
その内容は
   「めぐるめぐるよ 時代は巡る」
からは、歌唱の刺激で徐々に歌詞に寄り添う昂揚感が高まり、最後の
   「今日は倒れた 旅人たちも 生まれ変わって 歩きだすよ」
では、胸の詰まる状況になった。
これは明らかに鑑賞力の不足を自覚するできごとである。
それは歌唱の「花」が、歌い出しのアカペラで終わるものと考えていたところの甘さによって、最終章にアカペラ以上の「花」を咲かせるとは、予想だにしていなかったからである。
これによって、芸の品格に高級感を見い出している自分がいた。

 一方、芸人にとっての「内心の緊張」は、これまた最後の楽章に現れた。
出だしのアカペラの観客の反応は、芸人の納得いくものだった。しかし、
   「そんな時代も あったねと」
から
   「生まれ変わって めぐり逢うよ」
まての淡々と進んできたことによる観客の反応が、芸人の想いに反して納得の行かないものを感じたのであろうか、次の
   「めぐるめぐるよ 時代は巡る」
から
   「生まれ変わって 歩きだすよ」
まての歌唱には、徐々に情感の厚みを加えいる。そして最終楽章の
   「今日は倒れた 旅人たちも」
においては、観客の心にしみ入る最高潮の歌唱へと「工夫」がなされた。それによって思い通りの反応を確かめて、最後は
  「生まれ変わって 歩きだすよ」
を、より丁寧にゆっくりと歌唱することで、余韻が味わえる工夫の芸にして終えている。
 このように、観客を芸に取り込む「工夫」という調整機能を、芸の流れの中で自然に働かせたところに、「内心の緊張」が走ったものと想われる。歌い終えた後の、胸のかすかな膨らみが、それを物語っていた。

 なを、芸の内容が「用花」風だったか、「性花」風だったか、更に、「みごと」と感じたところはどこか、「みごと」の種類は、無意識か、意識的だったか等々については、次稿に移したい。


 寒の季の冬ごもりなる草や木も この陽にあたり花さかせらし



<参考> 「時代」の歌詞  作詞、作曲  中島みゆき

   今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて
   もう二度と 笑顔には なれそうも ないけど

    そんな時代も あったねと
    いつか話せる 日が来るわ
    あんな時代も あったねと
    きっと笑って 話せるわ

   だから 今日は くよくよしないで
   今日の風に 吹かれましょう

    まわるまわるよ 時代は廻る
    喜び悲しみくり返し
    今日は別れた 恋人たちも
    生まれ変わって めぐり逢うよ

   めぐるめぐるよ 時代は巡る
   別れと出逢いをくり返し
   今日は倒れた 旅人たちも
   生まれ変わって 歩きだすよ

    今日は倒れた 旅人たちも
    生まれ変わって 歩きだすよ


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑩-⑳ 



 投稿者  安宅 関平

 世阿弥の観客目線での芸の捉え方は、芸の花を「みごとだ」と感じることから始まっている。
そして、その「みごとだ」に「珍しい」が加わり「新鮮だ」という感覚が加わると、その結果として、芸の「興趣の深さ」が見い出されて、「面白い」という感興がそそがれる。それが「満足感」につながるのだと説いている。
しかしこうしたことは、芸の花をよく理解し、花の深い境地を自分のものにした時点で、よく解かるだろうとしている。

 世阿弥は、芸の花やその深い境地の理解という目線を、大衆が見い出せるように、ある逸話の例をあげて説明している。
それは、天の岩戸神話である。
 逸話は「面白い」の語源から始めている。
「面白い」とは、天照大御神が岩戸を開けた時に、神々の面がみなはっきりと見えてきたことから、それが「面白」と言い表されることになったとしている。
ところが、世阿弥は、光りが射すのに、神々の面がはっきり見えない薄明かりの期間は、「面白い」に該当しないことに注目している。
「面白い」とは一つの形として認識した段階での言い方である。
曙のごとき薄い明かりの差し込んだ時期から、一つの形として認識できるまでの期間の光景は、「面白い」という前の段階である。
芸の鑑賞にも、この時期のあることを重視している。
そこで、この時期をどう言い表すかである。
世阿弥は、これを「妙」と表現している。

 では、世阿弥の重視した「妙」とは、とのようなものかである。
それは、天照大御神が岩戸を閉めて世の中が夜・昼なしの暗黒だったのが、思いがけず明るくなった瞬間の心のありさまのことである。
そのありさまは、純粋に嬉しいと感じただけである。いわゆる歓喜の状態をいうのである。
つまり、歓喜とは意識を超越したことが生じたとき、微笑するだけで他になす術(すべ)のない状態をいうのである。それは「悟り」の一瞬にも似たものだと言っている。いわば「無心の感」である。
 ということは、「無心の感」が生じた瞬間の心は、純粋な嬉しさだけである。この状態を「妙」だとしている。

 このことを、島津亜矢さんの芸に置き換えると、解かりやすいかもしれない。島津亜矢さんの芸は、「妙」を感じる場面に、数多く出くわす機会があるからである。
そこで観客が、島津亜矢さんの演ずる芸の中に、「妙」と受け取るところがあれば、その瞬間の心そのものは、「無心の感」なのである。
この「無心の感」は、島津亜矢さんが表現する「興趣の深さ」が、思わず「あっ」と感歎する以外に術(すべ)の無い状態のことを指すものである。
これは、思わず知らずの境地であるから、「面白い」とさえ意識されない感動である。
ということは、本当に感動したその瞬間は、心の働きが無いということである。
 この感動を「易」の「経典」では、「感」の字の下の心を書かずに、「咸」だけで「感」と読ませている。それは、真の感とは心の働きを超えた境地だからだと世阿弥は説いている。
この場合、芸がみごとに演じられ、島津亜矢さんの表現的意象が観客の感覚に強く訴える際は、無意識に観客席からピタリ反応が起こるのである。これが「あっ」とか、「おっ」という感歎の声である。
この感動が「妙花」であり、「無心の咸」であり、「面白さ」なのである。「妙花」とは、「妙」だと感受する心である。

 世阿弥が説いているのは、観客が芸の鑑賞において、「みごとだ」と感じる過程は、岩戸を閉め暗黒状態の中をかすかに射しだした明かりに、言うべき言葉が存在しない感動の境地の生じるときが「妙」であり、もう明るくなったと感じるところが「花」である。それを「かたち」として認識するのが「面白い」なのであり、その変化の過程における感動を「みごとだ」と説いているのである。

そして、「花」とか、「新鮮」とか、「面白さ」とかは、同じものを別の面から表現しているものにすぎないとしている。
それは「妙」、「花」、「面白さ」という、三つのありさまの表現であり、しかもこのありさまは、ひとつの事柄でありながら更に、「上」、「中」、「下」のランクがあるとしている。
 「妙」は、区分のうえでは「上」である。
何故、「上」かと言えば、「妙」とは、絶対説明が不可能で心の働きで把握できないところの、高度な感情だからである。
 この高度さを、「妙」なる芸だと感じるところが、「花」なのである。
「花」は「中」の区分に位置する。
 この「花」を、一つの形で認識したのが、「面白い」である。
「面白い」は「下」の区分である。
このような区分は、ありさまから受ける感覚が、人間の意識に強く支配されるようになるほど、ランクが低くなるのである。
言い変えれば、意識の支配しない感覚になるほどランクが高くなるのは、それだけ人間の意識の及ばない神聖な境地の世界が、大きいからだとの考えからである。
観客の芸能鑑賞には、鑑賞する行為の中に、このような神聖な境地のあることを大切にせよと、世阿弥は説いているのである。そして、その境地が大きいほど、あるいはその境地をみる回数の多いほど、良質な芸に接しているだと説いている。
世阿弥の説くこの深い思考には、芸能鑑賞にこうした繊細なことが幾つも重なったり、連続して起きたりすることで、観客の人心を豊かにしてくれるということが含まれているようである。

 さて、世阿弥の観客目線による芸の捉え方は、「みごとだ」と感じることから「面白い」という感興を経て、満足感へとつながるまでに、上記のような「花」と、花を創り上げた深い「境地」のあることを芸に見い出して初めて、観客は芸人との一体感のある芸を楽しめるとしている。
 ただ、こうした楽しみ方は、本来、島津亜矢さんの芸に関心を持つ多くの観客においては、芸を「みごと」と感じた時点で無意識にできているところである。
島津亜矢さんの芸質は、観客をこのように上等にするほど良質なものである。
その意味では、この「みごと」に付随する「興趣」は、改めて採り上げる必要の無いことだったかも知れない。


 時を経て煙絶えにしふるさとの 軒のつららもうら寂しくみゆ


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 投稿者  安宅 関平

 前稿の冒頭で、芸人は、芸に対する観客の反応が、満足感から来るものなのか、そのほかの要因によるものなのかを測りながら、芸を披露することを世阿弥は重視していると記した。
これは高度な技術であるが、芸の進歩には欠かせない大事としている。
この大事を改めて、世阿弥の著書の中から学んでみてみたい。

 世阿弥は芸の魅力を「花」にたとえている。
花にはいろいろある。「桜」、「梅」、「桃」、「梨」などである。
世阿弥はその中で「桜」を最上級の花としている。次に続くのは「梅」、「桃」である。後は「雑木の花」としている。
 この「花」を、稽古によって獲得するよう説いたのが、著書・「風姿花伝」である。
この「風姿花伝」の中では、芸の魅力や美しさを、「時分の花」と「まことの花」に分けている。
「時分の花」は、一時期だけの美しさであり、必ず衰える花である。
「まことの花」は、真の芸の魅力を追及したもので、それは衰えることは無いとしている。
「花」のこうした見解は、芸人目線によって生まれたものである。

 これと同じことを、著書・「拾玉得花」では、「用花」と「性花」という表現をしている。
「用花」は「時分の花」に該当し、「性花」は「まことの花」に該当する。
これは、観客目線からのものである。
 そこで今回は、著書・「拾玉得花」の観客目線による、芸の魅力や美しさの捉え方学んでみたい。

 この観客目線というのは、観客が芸に接して「みごとだ」と感じる感じ方に、二種類あるのは何故かということから出発している。
二種類とは、一つは永年修行を積んてきた成果によって、「みごと」と感じられるものである。
あと一つは、少年少女等にみる芸で、浅い修行でありながら、愛らしく感じる「みごと」がある。
この二つは同じ「みごと」であるが、そこにはどのような違いがあるかを問うたものである。

 それには先ず、この感じる「みごと」そのものの意識は、双方とも「珍しい」という意識から来ていることを知るべきだとしている。
この「珍しい」とは、「新鮮で深い味わいのある面白さ」によるものだとしている。このことを面白味を意味する「興趣が深い芸」と呼んでいる。
ところで、芸を「興趣が深い芸」と受け取るその瞬間の意識には、固定的な決まった感じ方はない。
その意味では、この二つの「みごと」には、興趣の質に差は無いといっている。面白いことは、面白いにおいて同等だとしている。

 そのことを著書・「拾玉得花」のなかで、
  「無常心(=世をはかなく思う心)とは、どんなことか。」
  「常住不滅(=常に変わらす、永遠に滅びないこと)とは、
  どんなことか。」
との問いに対して、その答えはいずれも
  「飛花落葉(=絶えず移り変わる世のはかなさ)だ。」
とした事例を挙げている。

 これを芸人に当てはめて、興趣が感じられるのを「名手」いい、この興趣が何時までもあるものを「達人」としている。
「名手」の芸は無常心であり、「達人」の芸は常住不滅だという。
そして、このいずれもの興趣は、飛花落葉によっていると説いている。
更に、「興趣が深い」と感じさせる点を、老練の域に達するまで保持している芸人は、「飛花落葉を、常住(=世の変化は当たり前だ)と悟る」と言うようなものであるとしている。

 しかしながら、悟るところまでいかなくても、ある程度の花をみせる芸人もいる。世阿弥は、それはどういうことかを説明している。
その説明にあたって、芸の質を九段階に格付けし、更にそれを上三花、中三花、下三花の三クラスに分類している。
そこで、それぞれの芸に「興趣が深い」と感じられる点があれば、それはそのクラスに応じた「花」であるとしている。
例えば、中三花クラス、下三花クラスあたりの芸質に該当するいわば、「雑木の花」を、百姓・田舎者などが興趣が深いとした「みごと」においては、下級人士の鑑識であるとしている。
また、上三花の芸質に該当するいわば、桜の「花」を「みごと」と見るものは、上級人士の鑑識であるとしている。
ここに初めて質の違う二種類の「みごと」のあることを説いている。

 それは芸から受ける興趣、つまり面白いと感じることの質に差は無いが、芸人の芸の質や、観客の鑑賞眼の質の違いによって、「みごと」に格差が生じるとしている。
このことは、芸人も観客もそれぞれのクラスに応じた心と眼とがあるのだから、悟るところまでいかなくてもある程度の「花」が咲くとしたものである。
そして、「桜」以外の花は、芸道における途中途中に、咲く「花」だと言うのである。

 世阿弥は、またここで、礼記にある「老子の句」も挙げている。

  上士聞道 勤学     優れた人間が「道」の事を聞くと、
                 努力してそれを実行しようとする。
  中士聞道 如存如亡  普通の人間が「道」の事を聞くと、
                 半信半疑である。
  下士聞道 拍手大笑  くだらない人間が「道」の事を聞く
                 と、馬鹿らしいと笑う。
  不笑以不可有道。   そうやってくだらない人間に笑われ
                 るくらいでなければ「道」とは言え
                 ないものだ。

  故建言有之。       こんな言葉がある、
  明道若昧         「はっきりと明るい道は薄暗く見え
                 る。
  進道若退         しっかりと前進する道は後退するか
                 のようである。
  夷道若纇         ほんとうに平坦な道はちょっとした
                 起伏を大きく感じる。

  上徳若谷         高い徳のありさまは、低い谷川のよ
                 うである。
  廣徳若不足        広く行き渡る徳は 物足りなく感じ
                 る。
  建徳若偸         確固とした徳は、だらけきっている
                 ように見える。

  質眞若渝         純粋なものほど柔軟に変化する。
  大白若辱         真っ白な物ほど黒く見える。
  大方無隅         大いなる四角には 角が無く、
  大器晩成         大いなる器は 完成が遅い。
  大音希聲         大いなる音は 聞き取りづらく、
  大象無形         大いなる形には 明確な形が無い。」

  道隱無名         つまり「道」とは目に見える事象の
                 裏側に隠れているもので、もともと
                 名づけようがないものなのだ。
  夫唯道 善貸且善成。 しかしそれでも「道」は、万物に力
                 を貸し与え、万物の存在を完成させ
                 ている。

 世阿弥はこの老子の句をもって、本物の芸とはどのようなものか、更にはその本物の芸の見方をも説いている。
そして、最後に
  「芸の肝要は、諸人見風の哀見を以って道とす」
としている。
これは
  「芸の最も重要なことは、多くの観客をしみじみ共感させる
  ことを本筋とすべきである。」
として、芸の本質はここにあることを説いている。
 世阿弥は、芸人が観客の反応を測りながら芸を披露することを重視しているのは、上記の芸の本質に係わることだったからである。

 次稿では世阿弥の言う「みごと」に付随する「興趣」をみてみたい。


 ところで、第69回の紅白は、上記にあるような芸を見せてくれた芸人は何人いたであろうか。
4時間30分にわたって49組の芸をみた。だが愚者には、一人を除く他の芸には、該当するものは見当たらなかった。
しかしこれは、芸人も観客もそれぞれのクラスに応じた心と眼とがあるということだから、それはそれで好いのかも知れない。


 千鳥鳴く小松の原に若葉みゆ はよ小高なれ千代の陰みむ


幹の④-② 「善」③-②-⑳-⑨~風姿花伝 第七 別紙口伝 「秘すれば花」、その本質⑦-⑥~「芸の魅力」⑳-⑳克服した芸域の空洞化 (下の中⑬)アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」⑮-⑤-⑧-⑩-⑲ 



 投稿者  安宅 関平

 観客に「内心の緊張」がある一方で、芸人・島津亜矢さん自身にも、リスクを回避する「内心の緊張」を抱えていた。
 それは、芸に対する観客の反応が、満足感から来るものなのか、そのほかの要因によるものなのかを、測りながら芸を披露するところである。
世阿弥はこの心得を、芸の進歩に欠かせないものとして重視している。これについては長くなるので、次稿でじっくりと採り上げたい。
観客の反応を気にするのは、努力を重ねて自信を強めたはずの芸が、受け入れられるか否かの一抹の不安を持つところから来ている。
 と言うのも、劇場では観客の芸に対する満足感は、決して安定したものではないからである。
その日その日の観客の質によって、反応は変るのである。
そこでそのたびごとに、観客の心を芸に取り込む工夫が、瞬時に必要となる。この瞬時に必要な「工夫」の如何によって、芸が生きたりも死んだりもする。
芸人には、このような対応を迫られる苦労と努力の付きまとう現実が、そこにある。このときに「緊張」が走るのである。
だが、その苦労と努力で、反応が好転したときの高揚感は、芸人冥利に尽きる喜びと楽しさがあるようだ。
一方でその喜びと楽しさは、「工夫」という調整機能を働かせるたびに全身を襲う耐え難い緊張から開放される喜びでもある。
こうしたところに芸を披露することの魅力があるものと思われる。

 その意味では、観客の満足感の反応は、芸人の内心の緊張を和らげてくれるものである。芸人は、これが喜びとなり、楽しさにつながっているのであろう。島津亜矢さんはこの喜びを求めて、芸に傾注してきたものと思われる。
ただ、島津亜矢さんの凄いところは、観客の満足感が本心から出ているものか、その場のムードによるものなのかを、見極める鋭さを持っていることである。これがあるから芸が伸びてきたのであろう。

ところで、芸人がこの苦労と努力をするのは、それによって高揚感を味わえるからである。こうした高揚感への期待が芸の士気を鼓舞することに結びついている。
こうした観客を芸に取り込むために行う瞬時の「工夫」時に走る「緊張」に、技芸成長の基盤があるといえよう。

 では、観客の持つ期待と芸人の持つ期待で、「緊張」が迸(ほとばし)る世界の、その中にあるものは何かである。
それは、観客と芸人の双方に、人格に結びつく人間性が養われ成長していく過程の様子をみることである。
 観客側において、愉快で面白く、真面目な緊張感の楽しさの中にみる鑑賞眼を肥やす苦闘が、それである。
 芸人側においては、「工夫」という調整機能を働かせて得る高揚感の反面で、その度に襲う耐え難い緊張を重ねる苦労と努力の苦闘が、それである。
 双方とも、このことは、すべて真摯な緊張感から発生していると言えよう。この二つの緊張感の葛藤で飛沫(しぶき)の迸(ほとばし)るそのさまに、人間性の成長をみるのである。

 ところで、島津亜矢さんの芸は、こうした二つの「内心の緊張」を創り出し、人格の高揚に結びつけるという不思議な構造を持っていることである。
その構造の結果として、島津亜矢さんを好む人達に、人間性の豊かな人格者が多い感じを持つのはこれで頷ける。
同時に、芸人・島津亜矢さん自身と、それら人格者の影響によって、芸人の技芸成長基盤の強化やリスク回避要因が発生している。こうしたことが、島津亜矢さんを世間体では「良い芸人」と評しているのも頷ける。


 年の瀬は別れる色にあらねども こころに染みて雁が音侘し